ミミッキュ

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"ひなまつり"

 小窓ごしに診察室の中を覗いてくる。その姿が視界の端に見えると、カルテに情報を打ち込んでいた手を止めて顔を向ける。
「よ」
 片手を上げ短い声を出して反応すると、開け放たれた扉の前で一旦止まって丁寧に方向転換して、診察室に入ってくる。
「久しぶりだな」
 言いながら俺が座る椅子の前で止まる。その言葉に「おう、久しぶり」と返す。
「集中していた所の邪魔をして済まない」
 小さく腰を折って謝罪する。「いい」と方手を振って言葉を続ける。
「俺こそ、出迎えられなくて悪かった」
 朝とはいえ、今は開院して数十分経ったところで、俺より先に出迎えるハナは居室に箱詰め。先程医院に来た患者の、今ある情報を少しでも早く纏めたくパソコンに向かって打ち出していた為、数メートル近付いてくるまで足音に全く気付けなかった。
 何か言おうと口を開くが、方手でそれを制して「これでおあいこ」と続ける。すると小さく頷いて、謝罪のやり合いで時間を潰してしまう事を止めた俺の意図を汲んだ。
「これを」
 そう言うとスーツの懐に手を入れて、淡い緑色の手ぬぐいを取り出す。
 三日程前、オペ中に怪我をして流血したのを隠しながら病院に戻ろうとしたのを止めて医院に無理矢理連れて戻り、傷口にガーゼを当て固定用テープでは心許ないと、救急箱の傍に置いていた手ぬぐいで縛ったのだ。
 その時「血ぃ止まったら捨てろ」と言ったが「洗って返す」と言い返してきて、その時業務が残っていたのもあり「いいから早く帰れ」と半ば強く追い返した。
「あの後のスケジュールが分刻みだったから、正直助かった」
「用事ってこれかよ。……って、本当に洗って来たのか。いいっつったのに」
 丁寧に折り畳まれた手ぬぐいを顔の前で広げる。血の跡どころか土埃すら付いておらず、下手するとガーゼを固定する前よりも綺麗な淡い緑色に、胸の中で『本当律儀な奴』と呆れ声で呟いて小さく畳み直す。
「こんな安物、洗って返さなくたって……」
 立ち上がってデスク上の戸棚の扉を開け、救急箱の隣の数枚重ねて置いている他の手ぬぐいの上に置く。
「こんなの、近くの雑貨屋に似たようなの沢山売ってるし安いし、応急処置用に何枚かストックだってある。一枚や二枚無くなった所で幾らでも替えがきく」
 言い終えて戸棚の扉を閉めると、横から「そういう人だったな」という呟きが聞こえた。その呟きに小さく鼻を鳴らすと、「だが」と言葉を続けた。
「助かったのは事実だ。俺がやりたくてやった」
 そう真っ直ぐな声色で言われ、反論も何もできず「そうかよ」と短くぶっきらぼうに返す。
 すると、まだ時間があるのか「ところで、今日は桃の節句か」と小窓の傍に置いた、お内裏様とお雛様の折り紙に視線を向けながら話題を投げかけてきた。
「また徹夜して日付感覚狂ってんのか?」
 そう聞くと「違う」と否定してきた。
「ただ、これまでこの日にあまり思い入れが無かったから、今日が季節の行事がある日だと忘れていただけだ」
 言葉を最後まで聞くと「あぁ」と納得した。
 確かに俺たちには馴染みのない行事だ。思い入れどころか、行事についての思い出すら殆どない。
 それなのに、こうして折り紙を折って小窓の傍に飾っている俺は、良くも悪くも日付に細かいのだろうか。うざがられていないか少し心配になって、ちらりと伺う。
「ここに来る度に感覚が整うから有難い」
 そんな俺に気付いたのか、フォローの言葉をかけてくる。
「ちょっとでも季節感出した方が安心するだろ」
「確かに。行事を意識した飾りをすると安心する患者が多いからな」
「あと、ちょくちょく日付感覚狂ってる誰かさんの為に、こういう事して日付を教えてる所もあるな」
 ちょっと揶揄うように言うと「面目ない」と顔を少し伏せる。可笑しくて小さく笑い「冗談だ」と返す。
「それより時間大丈夫か?戻った後もあんだろ」
 そう言って腕時計を指差して時間を見るよう促す。腕時計を巻いた左手首を掲げて文字盤を見て「もうこんな時間か」と呟いて顔を上げる。
「そろそろ行かなければ。今度はゆっくり時間を作って来る」
 そう言ってコートの裾を翻すと廊下に歩み出て、方向転換してこちらを向いた。
「見送りはいい。また」
「あぁ、またな。ハナが会いたがってっから、今度はハナが出てられる時間帯に来い」
 そう言うと「分かった」と言って方手を上げて、壁の向こうに消えていった。革靴の音が遠ざかっていき、正面玄関の扉が開閉される音が聞こえた。
「……」
 救急箱と手ぬぐいが入っている戸棚の扉に視線を向ける。手を伸ばして扉を開けると、洗って返却された淡い緑色の手ぬぐいを取り出して、手ぬぐいの匂いを嗅ぐ。
──飛彩の匂い……。
 思わず表情が綻ぶ。数秒手ぬぐいに染み付いた匂いを堪能すると、何かに弾かれたように顔を上げて頭を振り、手ぬぐいを戻して戸棚の扉を閉める。
「こんな事してる場合じゃねぇ……。打ち込みの続き……」
 椅子に座ってパソコンに向かい、情報の打ち込みの続きを始めた。

3/3/2024, 2:44:16 PM