とよち

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雪の降る季節になると必ず思い出すことがある。
それは記憶の片隅から、脳に張り巡らされた電子回路をたどって、目蓋の裏のスクリーンに写し出される。そんな風に、忘れられない、はっきりとした思い出なのだ。その記憶の話を勝手ながらここで話させてもらおうと思う。小学5年生ぐらいだった私はその年、学校内でひどいいじめを受け続けていた。内面から腐りきったような、人の顔色をうかがって自分の面の皮をとっかえながら生きているような、そんな聞いただけでも嗚咽と怒号が止まらないような、とにかく気のおかしくなるような奴と友達になってしまった。「なってしまった」と言っても、「いつのまにか取り付かれていた」と言った方が正しいのかも知れない。ただ僕はそいつに遊び道具のようにいじめられていた。ブラック企業のように、私が怒ると急に味方になったり、優しくなったりして、私は完全にそいつの手の下で操られていた。日に日に心と身体の傷も増え、心配してくれる仲間のことも、なんだかその心優しい天使達が、毎日を幸せに生きているように思えてきて、段々憎んでしまうようになっていった。また、そんな自分も嫌いで仕方なかった。ある日の憂鬱な目覚め。「もう生きていたくない。」そう呟いた枕元への静かな囁き。そのときに産まれて初めてそんな言葉を口に出したと思う。自分でも口から流れるように無意識に出てきた言葉に驚き、涙が止まらなくなった。そのとき一階から母親の「ドヴォルザークの行進曲8番」とも、「ショパンのノクターン第2番」とも似た母親の「朝よー、起きなさい。」という優しい、聖母マリアのような奥深い包むような響きが僕の胸を奮い立たせた。そんな単純な一言でさえも、ものすごい味方が着いてくれたようで嬉しかったのだ。窓から見える外はこの世の色が全て抜けおち、水になり川にながされていったかのような真白い雪があたり一面を覆い尽くしていた。私は急いで下に降りて、目が赤く腫れ上がっているのを、「目が痛いほど痒い」と言って誤魔化し、朝食を口に含んだ。食べている途中、温かい朝食の有り難さと優しさに泣きそうになったが、気にしないようにして茶碗で顔を隠しながら食べ続けた。また憂鬱な1日がここから始まる。嫌でしかたがなかった。どんな表現の仕方があったとしても、結局は嫌だとしか表現に出来ない事が辛くて、気が遠くなるほどとてつもなく最悪な気分だった。どうこう言ってもしょうがないので、せめてなるべくそいつと顔を会わせないようにしようと私は早く家を出る事にした。上下繋ぎのスキーウェアを着て、暖かい帽子と手袋を身に付け、私は重いランドセルのきしむ音と共に外に飛び出した。すると私が今までで一度も見たことのないような、とにかく「美しい」としか表現出来ない細かく舞った「ダイヤモンドダスト」 が私の目に写った。父と母も驚いて飛び出してきて、あまりの美しさに口をあんぐりと開けたままでいた。それを2分ほど見つめたあと、「頑張っていっておいで」とだけ私に言った父の、送り出すのが辛いような儚い笑顔が今でも脳裏によみがえる。私はこの思い出話を書いていてふと思ったことがある。そういえばはっきりと浮かぶこの記憶のどこがこんなにも美しかったのかと。これまでの話の流れからしても、「いやいやダイヤモンドダストだろ。」と思うかも知れない。だが私にはその舞い散る宝石のような雪よりも、父親のしたあの顔の方が美しいと思ったからなのかもしれないと思ったのだ。ふと、我に返りスマホから目を離すと座ってテレビを見ながらカステラを少しずつ口に運んでいる母が見えた。伝えたい気持ちがふつふつと頭に浮かんできたが、照れ臭くて口に出せなかった。まごまごしているうちに母は台所に入ってしまい、タイミングを自分で逃がしてしまった。そんな自分にまた嫌気が差した。

「ダイヤモンドダストの朝」



後書き
長文にも関わらず、最後まで読んでいただきありがとうございます。今回の話は実話で、エッセイみたいな感じで書きました。まだ走り出しなので違和感のある所も沢山あると思いますが、そこは流してくれれば幸いです。長々と申し訳ございませんでした。

お題 美しい

1/16/2024, 2:33:22 PM