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長くなってしまった…(´・ω・`)
でも、書きたい部分が書けて満足(*´ω`*)
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人事異動の内示で、研究所に入社三年目の女性が入ってくることは知っていた。

今まで男性社員が入ってくることはあっても女性というのは初めてだ。
僕は、小さく華奢な女性を前に緊張していた。

彼女も緊張しているのか、或いは、研究所の割にお粗末とでも思っているのか──大きな目はキョロキョロと落ち着きなく研究室内を彷徨っている。
過去配属されてきた人たちにも散々言われたので、目の動きだけでなんとなくこのどちらかだろうと想像がつく。
余計な能力がついてしまったものだ。
内心で自己分析という名の逃避行をしても、心臓はまだバクバクと音を立て落ち着かない。

二人しどもどしながら、なんとかセオリー通りの挨拶を済ませる。
名前を名乗るだけなのに、どうしてこうも緊張するのだろうか。
でも、今回は噛まなかったし、これでご挨拶の儀式は完了だ。
ほっと息をついていると、それまで静かにしていた彼女が意を決したように言葉を発した。

「あの、…博士、ですよね」

博士?僕は所長と言ったはずだけど…。
首を傾げて疑問符を浮かべていると、彼女は慌て付け足した。

「あっ、あの。昔、ホームページで、夏休み企画で」

夏休み企画?夏休み…。

頭を捻り、昔の記憶を漁っていると企画書が映像になって現れた。

ああ!思い出した!
随分昔に受けた広報からの依頼だ。

確か、「夏休み企画!自由研究のお手伝い」とかいうタイトルが付いていたはずだ。
各研究所から一人選ばれて、文章を寄稿するというものだった。
しかし、蓋を開けてみると子供向けとは言えないような研究の話だったり、開発中の秘話であったりと本来の企画意図より自由に発展していた。
「色水を作ろう」なんて子供向けを執筆したのは、自分一人だけだった。
しかも、広報の悪戯なのか遊び心なのかそれぞれの名前の後ろに「博士」と付いていたのも思い出した。
周りがしっかりした文章の中かなり浮いていているだけでも大ダメージなのに、「博士とは!?」と羞恥に身悶えた記憶も蘇ってくる。

今すぐにでも過去の記憶に身悶えたいが、そんな事をしたらヤバい人だ。状況を考えろ。我慢だ。我慢だ自分。

グッと恥ずかしさを堪えていると、彼女はキラキラとした目で僕を見てきた。

「あの時の博士の文章わかりやすくて、花に興味を持てたのは博士のお陰なんです!一回きりしか登場しなかったの、寂しかったんですよ!」

興奮しているのか、頬を上気させ身振り手振り熱弁している。
まだ彼女の言葉は続いているが、頭に入ってこない。

羞恥の思い出しかなかった僕の文章が、誰かに届いている上に覚えてもらっている。しかも、良い方向に作用している。
どうしよう。
胸がぐっときてしまって言葉にならない。
なんか、泣きそうだ。

じんわりとした胸の温かさに浸っていると、彼女が恐る恐るといった感じで尋ねてきた。

「あの、所長ではなく、博士と呼んでもいいでしょうか」

「えっ」

「あっ、すみません!変なこと口走りました!ごめんなさい。忘れてください」

彼女は顔を真赤にすると、どんどん声が小さくなっていく。気のせいだろうか、体も小さく縮こまって見える。
その姿に過去の自分の姿が重なって見えた。

「いいよ」

「えっ」

「君の好きに呼んで」

僕の言葉に彼女の目はキラキラと輝きを取り戻し、宝石の様に輝いた。

「ありがとうございます!博士!」

そう言って彼女は、弾けんばかりの笑みを浮かべた。
まるで太陽に向かって咲き誇る向日葵のような笑みだった。

ピピッピピッピピッ

時計が鳴っている。
布団から腕だけを出し時計の頭を叩く。
僅かな残響を残してアラームが止まった。

のそりと頭を動かし、霞む目で時計の数字を追う。
午前五時。起床の時間だ。

随分懐かしい夢を見ていた。

彼女が研究所に来たのは、二年前だ。
二年という時間経過の事実に実感がわかないのは、年のせいだろうか。

もし、君と出会っていなかったら…。

起き抜けの頭は、先程の夢から離れられないようだ。彼女の顔を思い浮かべながら、もしもを考えてしまう。

君と出逢っていなかったら、僕は博士と呼ばれることはなかっただろう。
三時の休憩が楽しいことも知らず、研究だけが生き甲斐で、身体のことなんか考えもせず徹夜も平気でして、体を壊していたかもしれない。

想像に難くない有り得た未来に苦笑が漏れる。
それと同時に眉をしかめた彼女の顔が浮かんだ。

ごめん、そんな顔しないで。

彼女は頬をぷっと膨らませ、子どものような拗ねた顔をすると、姿を消してしまった。

君と出逢って僕は、今の僕になったんだ。

君が博士と呼んでくれるから、僕は博士でいられる。

来る未来は、過去研究所に配属されてきた人達が選んだ道のいずれかへと繋がるだろう。

それまで僕は、君の博士でいられれば十分だ。

僕は勢いよく布団から起きると、朝の支度へ取り掛かった。

5/5/2024, 1:05:09 PM