「誰にも言えない秘密ってありますか?」
この間、職場内研修で学んだことを実践してみる。仕事の会話だけではなく時には雑談を交えてみること。その例の中に入っていたこの質問を隣の席の彼に投げかけてみた。すると彼は何事かと目を見開いてから、少し悩んだ様子。やっぱり突然雑談をしようなんて難しい。どう声をかけてから雑談を始めてみるべきだったのかと後悔だけが彼の悩む姿を見る時間と比例して積もっていく。
「イエスノーで答えるならばイエスです」
「あ、そうなんですね。ありがとうございます。」
ありがとうございます?それも何かが違う気がする。圧倒的にコミュニケーション力に欠けているのかもしれないと悩んでいた時に、上司に声をかけてもらって参加した研修だった。なのに、何ひとつ実践できていないではないか。雑談は返ってきた答えをどう広げるかが大事だと研修でも言っていたのに。
そんな私を見兼ねてか、彼は口を開く。
「誰にも『言えない』秘密を教えるわけにはいかないのですが、誰にも『言っていない』秘密なら、言えなくはないです」
そこで私は気づく。そうだよ、『誰にも言えない秘密』なんて言葉通りだ。彼の言う通り、『誰にも言っていない秘密』のほうがタイミングさえ合えば話せる機会はあるはず。
「言っていないといいますと、悩みごとですか?」
「いえ、気持ちですかね」
「気持ち…例えば、仕事への不満ですか?もし私が聞けるものでしたら、お話聞きますよ」
よし、良い調子。話を広げて、相手に話やすい雰囲気を作る。そしてまた別日でも話す機会を設けるように話を進めていく。ここまでは研修で教わった通りだ。
「いえ、大丈夫です」
彼はそう告げるとコーヒーの入っていたマグカップを持ちながら席を立ってしまった。やはり、私では駄目なのかと落胆する。このままでは一生昇級なんてできないんだろうな。それに比べて、隣の彼は昇級という言葉に最も近い人で、次の人事異動で違う花形部署に配属されるのではと期待されている。住む世界が違う?でも今は同じ部署で同僚として一緒に働いているのだから、私にだってチャンスはあるはず。
「考えごとですか?」
「…うまく、喋れないなって反省してます」
「先程の会話ですか」
彼はコーヒーを注ぎに行ったついでと言って私に自動販売機の紅茶を渡してくれる。最近暑さが続く中で、ひんやりとした缶の冷たさは私の頭をも冷やしてくれるようだった。
「それが苗字さんの『誰にも言っていない秘密』ですね」
「あ、えっと、それは…その……はい、」
彼の前では、嘘がつけない。彼の推理力もさながら、彼を目の前にして何かを聞かれると伝えようとしていないことまで口にしてしまう。彼のコミュニケーション力に吸い取られるような感覚。一瞬にして、彼との会話の世界に入り込んで、楽しいと思える。
「苗字さんが教えてくれたので、私もひとつ、誰にも言っていないこと、苗字さんだけにお伝えします」
そう彼は言うと手を引っ張り、私の耳元に口を近づける。マスク越しなのに、まるで耳に息を吹きかけられるかのように擽ったく、そして彼がいつにも増して距離が近いことに胸の高鳴りを覚える。
「あなたが好きです」
耳元でそう囁かれた声は私の身体を染色していく。
今、なんと言いましたか?なんて聞けなくて、耳から順に真っ赤に染まり行く身体。仕事なんて到底できそうにないほどに胸を熱くさせる。
誰にも『言っていない』秘密が増えた。
私も彼が好きだということ。
6/6/2022, 5:40:37 AM