汀月透子

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〈どこまでも〉


 窓ガラスに映る自分の顔を見て、私はため息をついた。
 四十七歳。いつの間にか深く刻まれた眉間の皺が、毎日の疲れを物語っている。

「お母さん、醤油取って」

 娘の声に反応して立ち上がる。結婚して二十年。夫と二人の子どものために生きてきた。
 専業主婦として、母として、妻として──それが当たり前だと思っていた。

 でも、ふと気づく。私は今、何者なのだろう。

 大学時代、私は演劇サークルに所属していた。
 何者にもなれる演劇が、舞台に立つことが何より好きだった。稽古で徹夜しても、どこまでも走り続けられる気がした。
 演じることが楽しくてしょうがない頃、友人の佐和子が言った言葉を今でも覚えている。

「真紀ちゃんには才能がある。
 どこまでも行けるよ」

 どこまでも──

 あの頃は本当にそう信じていた。限界なんて考えたこともなかった。

 でも、次第に現実を突きつけられることになる。オーディションに落ち続け、舞台に立てたのは佐和子だった。
 彼女の演技を観客席から見た時、私は理解した。才能の差を。
 佐和子は舞台で輝いていた。私には決して届かない場所で。

「私、劇団を立ち上げる。
 真紀ちゃんも一緒にやろうよ」

 佐和子は優しく誘ってくれた。でも、その優しさが余計に辛かった。

 卒業後、私は就職した。そして二年後、職場で出会った夫と結婚した。
 彼は私の過去を知らない。知らせる必要もなかった。演劇なんて若気の至りだったのだと、自分に言い聞かせた。
 あの輝いた時は、もう遠い夢だった。

 スマートフォンが鳴った。大学時代の演劇サークルのグループチャットから、同窓会の案内が届いた。二十五年ぶりの集まりだ。

 私は迷ったが、夫に相談すると「たまにはいいんじゃない」と言ってくれた。

 居酒屋の個室に、懐かしい顔ぶれがそろった。佐和子は今も舞台女優として活動していた。他の友人たちも、それぞれの道を歩んでいる。

「真紀ちゃんは?」と聞かれて、私は言葉に詰まった。
「……専業主婦、です」
 一瞬、静かになる。あの頃のこと、皆わかってるからこその沈黙だ。

 佐和子が静かに口を開いた。
「あの時、ごめんね。
 私、真紀ちゃんから何か奪ってしまった気がして、ずっと気になってたんだ」

 私は首を振る。
「違うよ。
 佐和子は正当に才能を評価されただけ。私が勝手に逃げたの」

「でもね」
 佐和子は真っ直ぐ私を見た。
「私はあの頃が一番楽しかった……
 あなたと一緒に演じていられた、あの空間が好きだったのよ」

 その言葉に、私の胸が熱くなった。

 帰り道、佐和子が「うちの劇団、大人の演劇教室やってるんだ。来ない?」と誘ってくれた。
「演劇って、才能だけじゃない。
 人生経験、感情の深み、それも全部、演技の深みになる。
 真紀ちゃんは今、あの頃より絶対にいい演技ができるよ」

 家に帰り、鏡の前に立った。また、あの眉間の皺が見える。
 でも今日は違って見えた。この皺は、生きてきた証だ。


 翌朝、私は家族に告げた。「週に一度、演劇教室に通いたい」と。
 娘が驚いた顔をしたが、次の瞬間、にっこり笑った。「いいじゃん、お母さん。やりたいことやりなよ」
 

 初めて演劇教室に向かう電車の中で、私は窓の外を見つめた。

 四十七歳。遅すぎるだろうか。
 いや、人生に限界なんてない。
 あの頃のように、どこまでも行ける。今度は、積み重ねてきた時間とともに。

「どこまでも」

 小さく呟いた言葉が、胸の奥で静かに響いた。

10/12/2025, 9:57:15 PM