ふんわり、ふわふわ。
休み時間、次の授業へと教室を移動する廊下にて。
隣を歩く友人が一歩一歩と踏み出す度、その動きに合わせて、爽やかな香りがそっと鼻先をかすめてくる。
ああ、なるほど。朝からクラスの女子たちがざわついていたのはこれのせいか。
確かに、こんな風に香ってきたら気になるわな。あいつらがそわそわしても仕方がない。
でもこれ。石鹸とかでもないし、一体何の匂いだ?
「なあ、おまえ。今日は香水でもつけてんの?」
「ええ? 何、急に」
すれ違う他の生徒をひょいと避けて、先を歩いていた王子が俺を振り返る。
同時に、後ろを歩く女子たちのお喋りもピタリと止んだ。
タイミングの良すぎるそれに、俺たちの会話に耳をそばだてているのがバレバレだ。
うわ、しくじった。俺としては素直に疑問を口にしただけなのに。
割り込んできたりこそ無いものの、会話を聞かれると分かっていて話すのはやりづらい。
けれども、自分から振った話題を今更引っ込めることも出来なくて、そのまま王子の答えを待ってみた。
王子の方も盗み聞きに気付いているのか、いないのか。
注目されることに慣れている学年トップの王子さまは、さして顔色に出すことなく、眉根だけ寄せて歩き続けた。
「香水って、それ校則違反だよ。僕がつける訳ないでしょ」
「俺だって分かってるよそんなことは。でも、何て言うか。おまえが動く度にこう、爽やか~なのが香って来るんだよ」
「爽やか?――ああ! 分かった」
俺の説明で合点がいったのか、王子は笑って相槌を打つ。
そして袖口に鼻を寄せ、自身も確認してから答えてくれた。
「これ、柚子だよ。昨日、近所の人がたくさんくれてね。食べるだけじゃ消費出来ないって、母さんが柚子風呂にしたんだ。凄いいっぱい浮かべてたし、その名残りだねきっと」
「あ~。柚子」
言われてみればそんな香りだ。
幼い日、まだ母さんも生きていた頃。
そんな昔。俺の家でも冬になると、母さんが料理やジャムに使ったり、同じように柚子風呂にしてくれていたのを思い出した。
親父との男所帯になってからはずっと遠退いていたけれど、何だか懐かしいな。
「師匠の家も要る? まだ残ってるはずだし、良ければ明日持ってくるよ」
俺の表情が和らいだのを、興味を持ったと読み取ったのか。
すかさず王子が勧めてきた。
「ええ? いやあ、うちは親父と二人だからなあ」
突然の提案に戸惑って、首を傾げて迷ってしまった。
「いつもならジャムとかやってみたいところだけれど、この時期流石に凝った料理やってる暇はねえし。貰っても、風呂に入れるくらいしか出来ないぞ」
「良いよ、それでも。貰って協力してくれたらうちの母さんも喜ぶし」
それに、と言って王子は付け足す。
「柚子風呂って邪気祓いになるって言うよ。僕ら受験生だし、冬至は過ぎちゃったけれど、ご利益に預かっても良いんじゃない?」
「ええ? そうかあ?」
「そうそう」
俺の返事を待たずして、気の早い王子はもうメッセージを送信して残りの柚子の数を尋ねている。
タイミングも良かったのか、返信もすぐ返ってきた。
「やっぱりまだ残ってるって。どうする?」
「うーん。そこまで言うなら貰っておくかな」
親父も、案外懐かしがって喜ぶかもしれないし。
何より、邪気祓いの効果に興味を惹かれた。
受験生だもの、すがれるものにあやかって損は無いはずだ。
「オッケー。じゃあ明日持ってくるね」
「少しで良いからな、少しで」
「了解、伝えておくよ」
気が付けば、喋り込んでいる間に目的の教室前まで着いていた。
寒い寒い、と呟いて王子が足早に教室へと駆け込んでいく。
俺もそれに続いて、入り口をくぐる。
その時、何となく気になって後ろを振り返ってみたところ。
俺らの後ろを着いてきていた女子たちが、俺を拝んだり、「よくやった!」とばかりに親指を立てて微笑んでいるのを見てしまった。
おいおい。やっぱり盗み聞きしてやがったのか。
予想通りの結果に、げんなりしてため息が漏れる。
あーあ。早速運気が下がっていくようだ。
やっぱり柚子の力が必要だな、これは。
のろのろと動く俺に構わずに、女子たちは上機嫌。
労う様に、彼女たちにばしばしと背中を叩かれながら。
俺も一緒に暖房の効いた部屋へと足を踏み入れた。
もう、そっとしておいてくれよ。まったく。
(2025/01/14 title:071 そっと)
1/15/2025, 9:59:30 AM