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パクられた。

何が、と言えば傘である。なんの変哲もない、一本だけ骨の折れたビニール傘である。思い入れは特にないが、駅から自宅までの15分を思うと頭が痛い。
ほんの一瞬、ドア横の持ち手に引っかけただけなのに、都会って怖いものだ。治安が悪すぎる。
かたたん、と車両の揺れに合わせて隣の友人に体重をかける。

「…おもい。」
「こんな美人に何を言うか。」
「美人なら美人らしく慎ましくしろ。」
「あ、認めた?美人って?」
「やかましい。」

ようやく、眼鏡越しの瞳がこちらを向いた。
さらりと流れる前髪を本人は鬱陶しいと言っていたけれど、癖毛からするとその直毛は譲って欲しいまである。

「ねぇねぇ、駅からいれて?」
「何に?」
「傘。」
「さっきまで持ってなかった?」
「パクられました〜!」
「…もっと危機感持てよ。」
「それで、入れてくれる?」
「パピコ一個な。」
ため息を吐いても、呆れた目をしても、ずっとずっと優しいのを知っている。
綺麗で優しいお嫁さんと、家を出ていくなくことも知っている。
だから、甘えられるうちに甘えようと、そう思うのだ。

「半分ちょうだいね、お兄ちゃん。」
「…しょうがないな。」

6/19/2023, 12:57:52 PM