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『紫陽花の傘の下で』
あの日の景色を、僕は今でも忘れられない。
灰色の空。
濡れたアスファルト。
そして、雨に打たれてなお咲き誇る紫陽花たち。
朝から降り続く雨は、まるで世界を静かに閉ざしていた。
制服のシャツが肌に張りつく感覚も、
靴下の中に染み込む水の冷たさも、
すべてが、あの日の景色の一部だった。
学校へ向かうふりをして、僕はあの公園へ向かった。
駅の裏手にある、誰も気に留めない小さな場所。
けれど、あの季節だけは違った。
紫陽花が咲き乱れる、静かな楽園。
あの日の景色には、色があった。
青、紫、淡いピンク。
雨粒をまとった花びらが、まるで呼吸するように揺れていた。
その色彩は、どこか遠い記憶を呼び起こすようで、
僕の心をそっと掴んで離さなかった。
ベンチに腰を下ろし、傘も差さずにただ雨を見ていた。
濡れた木の感触。
土の匂い。
紫陽花の香り。
それらすべてが、あの日の景色を形づくっていた。
そして、彼女が現れた。
「……風邪、ひくよ?」
その声もまた、あの日の景色の一部だった。
振り向くと、そこに一人の女性が立っていた。
薄い茶色のスーツに、白いシャツ。
雨に濡れて少しだけ色が深まったその布地は、
紫陽花の群れの中で、どこか優しく溶け込んでいた。
濡れた前髪が額に張りついていたけれど、彼女は気にする様子もなく、
透明なビニール傘を僕の方へ差し出した。
スーツ姿の彼女は、まるでこの場所に似つかわしくないようで、
けれど紫陽花の前に立つその姿は、不思議と調和していた。
「紫陽花、好きなの?」
僕はうなずいた。
彼女は微笑んで、僕の隣に腰を下ろした。
傘の下、雨の音が少しだけ遠くなった。
「私もね、昔ここでよく雨宿りしてたの。
学校、行きたくない日とか、ここに来て、紫陽花見てた。」
その言葉に、僕の胸が少しだけ温かくなった。
まるで、彼女もまた、あの日の景色の中に生きていたようで。
「紫陽花って、不思議だよね。
雨に濡れてるのに、どこか誇らしげで。」
僕は、ようやく声を出せた。
「……僕も、そう思ってた。」
彼女は笑った。
その笑顔もまた、あの日の景色の中で、いちばん鮮やかだった。
「じゃあ、今日はここで休んでいこうか。
紫陽花の傘の下で。」
その日、僕は学校には行かなかった。
でも、心のどこかで、少しだけ前を向けた気がした。
雨は止まなかったけれど、
あの日の景色――濡れた紫陽花、灰色の空、濡れたベンチ、そして薄茶のスーツの彼女の傘――
今でも、僕の中で静かに咲き続けている。
ふとした雨の日に、あの香りを感じるたび、
僕はそっと目を閉じて、あの日の景色を思い出す。
それは、僕の心の奥に咲いた、永遠の紫陽花だった。
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7/8/2025, 12:56:54 PM