永坂暖日

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「ごめんね」

 赤い、赤い夕日を背にして彼女が口にした言葉。逆光で表情は見えなくて、風が強くて、声は聞き取りづらかった。
 どうして謝られるのか理由が分からなかった僕は、きっと間抜けな顔をしていただろう。それから、今思えばもっと間抜けな返事をしていた。
「謝らなくていいよ。リジャは何も悪くないんだから」
 理由も問わないまま、何故と疑問にも思わないまま、そう言っていた。それを聞いたリジャがどんな表情をしていたか、もちろん、僕には見えなかった。
 世界は悲しいことに満ちている。辛いことはどこにでも落ちている。楽しいこと、幸せなことは、一生懸命に探さなければ見つからない。それが当たり前の世界。魔王と呼ばれる存在が、その配下を使って世界を蹂躙し、人々は常にびくびくしながら生きていた。草むらに寝転がってのんびり日向ぼっこするなんて、夢物語な日常。
 平穏なんて、言葉でしか知らなかったけど、幸せは実感を伴って知っていた。リジャが隣にいる。それだけで、僕は幸せだった。たとえ、村から一歩出ればいつ命を落としてもおかしくない世界だとしても。夜に家の窓も戸もしっかりと閉めていても、安心してぐっすりとは眠れなくても。目が覚めて朝が来れば、リジャとまた会えるから。
 なのに――。
 数時間前に見た夕焼けのように――いや、比べものにならないほど禍々しく、空が赤黒く染まっていた。未だかつて聞いたことのないような悲鳴が、近くから遠くから、いくつも聞こえる。
 叩き起こされて家を飛び出した時には、もう地獄のような様相を呈していた。昼間のように明るく、夏のように熱く、誰もが叫び声を上げながら逃げまどっていた。
 煙と炎が渦巻く空を飛び回っているのは鳥などではなく、恐ろしく太い爪で、人をひっかけては飛び上がり、戯れのように屋根よりもずっと高い位置から落としいた。
「リジャ!」
 逃げようという家族の手をすり抜け、燃え上がる隣家へ急ぐ。
「リジャ!」
 轟音を上げる炎を背に、リジャは佇んでいた。足下には、彼女の家族が倒れていた。リジャ以外、誰も動かない。せめて彼女だけ無事で良かった――。
「リ」
「来ちゃだめ!」
 悲痛さのにじむ声に、足を止める。炎を背にしているから、リジャの表情は見えない。その彼女の影から、真っ黒な何かが生えるように現れた。それはあっという間に大きく膨れ上がる。巨大な人のようにも見えた。刃で切り抜いたように、顔の部分に目と口ができる。弧を描くそれらは、愉快げに笑っているようだった。
「さあ、我が子よ。歓迎の儀式を締めるときだ。あれを、斬るがいい」
 真っ黒な影はリジャの背後に回り込み、細い肩に黒い手をかける。
「……もう、いいでしょう。わたしは大人しくついて行くから、これ以上は!」
 リジャが頭を抱えてしゃがみ込む。その足下に、一振りの剣が落ちていることに、ようやく気付いた。刃は、炎ではない赤に染まっている。
「親しいものとの縁を切れ。さもなくば炎は更に広がるぞ」
 リジャがゆっくりと顔を上げる。彼女の背後に真っ黒な影がいるせいで、その表情が見えた。うつろな目から流れる幾筋もの涙。頭を抱えていた手が、地面に横たわる剣の柄に触れる。
 背を向けて今すぐ逃げろ、と冷静な部分が叫んでいる。けれど、彼女に何が起きているのか分からないまま逃げてもいいのか、と感情の部分が引き留める。
 結局固まったように動けないまま、振り下ろされる切っ先を見ていた。
 リジャは、僕の名前を呼びながら、泣きながら、剣を振り抜いた。

 頬を打つ水の感触で、目を覚ました。体が燃えるように熱い。痛い。焦げ臭いにおいが鼻の奥まで詰まっている。雨音しか聞こえなかった。
 生きているのが不思議だったが、リジャに斬られた傷は、結局、それほど深くはなかったらしい。救助に来た近隣の村人達によると、生き残ったのは僕を含めてほんの数人。その誰もが脅え、あの夜の出来事を語ろうとはしないという。
 僕も、あの夜に見たことを誰かに言う気にはなれなかった。
 だから、誰にも言わず、ひっそりと旅立った。煙のように消えたリジャを探すために。あの夕暮れに、謝った理由を聞くために。

5/29/2023, 12:56:32 PM