郡司

Open App

美しい、ですと…?
普段たまに気軽に使う言葉かもしれない。でもただ「美しい」だと、なんだか虚ろな感じがするのは何故だろう。私はこれまでに何を美しいと感じたか、思い出してみる。

夜の海で、夜光虫の群れの中を泳ぐイルカ。このときは「自然の造形にはまったくかなわない」と、静かに驚嘆した。絵を描くことから離れた。あの命の様をまるまる描きとることが出来るなら天才だ。…でもこれは「造形」とはちょっと違うな。夜光虫のありようとイルカのありようが出会って、言葉でも表し難い「生命感の発現」が「鳴り渡る」ようだった。

「お年寄り」に、意外な驚きを持って美しさを眺めたときは「人間が顕す美しさ」の謎について、ものすごく考えた。私の祖母が90歳のとき、いつも通りに家に行ったら、ヴォーグの表紙みたいな祖母が居た。いつもの服、いつもの髪型、化粧なんかしていない90歳である。高齢者らしく、ちゃんと老年者の姿のまま。断っておくが、私の脳の視覚野はフツーだ。
 近所に住んで居られた「自称天涯孤独」のTさんは不思議にやたらとカッコイイとご近所さん皆が認める人だった。がっつり高齢者である。いつもは山林の中での仕事をしていたが、大事な外出のときは質の良い黒のコートと黒の山高帽という出で立ちだった。くわえ煙草で外作業、いいかげん見慣れている筈の近隣住民がいつも「やたらカッコイイ爺さんが居ると思ったらTさんだった」と話題に出していたくらい、いつも「新たにカッコイイ人」だったんだが、そのTさんが医者から余命宣告を受けた。お医者の計らいで医療付き老人ホームへ転居されると聞いて、私はTさんのところへご挨拶に伺った。一時はお隣さんだったからだ。間近で見るTさんは病に消耗した姿で、「カッコイイ覇気」は見受けられず、私は少し寂しくなった。しかし同日の夜、少し離れた位置から引っ越し準備をしているTさんをたまたま見かけた私は驚いた。私の目に見えたそのときのTさんは、これまでどおりに「クソカッコイイ覇気に不足しない、いつものTさん」だったのだ。驚きながら暫く凝視してみたが、やっぱりカッコイイのだ。再び断っておくが、私の脳の視覚野はフツーだ。
 そして私の祖父。94歳のとき、まるで「飛び立つ支度のひとつ」とばかりに、自宅の内外を整えていたのだが、「病を得て人生の完了を間近に見ている高齢者」とは思えないほど清しい美しさがあった。姿勢の良い人だったけれど、そんな要素を軽く凌駕する美しさを醸していた。再三断っておくが、私の脳の視覚野はどこまでもフツーだ。

ショーン・コネリーが年取るほどにますますカッコ良く、美しくなっていったことも大いに謎だった。さて、彼らの「美しさ」の正体は何だろうか?

昨今は「若さすなわち美しさ」という考えが広く浸透しているから、私は前述の「美しきお年寄り達」の姿に興味津々だ。しかしどんなに考えても、まだ彼らの美しさの正体を掴めない。夜光虫とイルカはわかる。全開で顕される生命感がその核心だと確信している。
 そんなに歳を重ねていなくても美しい人は居る。私が思う「美しい人」とは、只に容姿の形がパーツの調和を示しているだけの人ではない。何かしら、そのようなものを絶しているところから立ちのぼる美しさのある人達だ。考えて見れば、本当に不思議なものだ。

自然の姿は問答無用で美しい。生命感を遮るものが無いからなのか? 人間の美しさも、もしかしたら「本来の生命感」がまっすぐ顕れているとき、際立つものなのかもしれない。

1/16/2024, 4:15:16 PM