数年前の初夏の頃、俺は淡い桃色の貝殻を砕いてその粉を飲み込んだ。
彼奴と過ごしたひと夏の思い出の品であるそれは、口の中でジャリジャリとした砂とほんのりと夕暮れの海風の香りを遺しただけであった。
貝殻を飲み込んでから今に至るまで、彼奴の事を思い出す事はなくなっていた。ずるずると女々しく彼奴の事を引き摺っていたのが嘘のように。
形に残る思い出が無くなるだけで、こんなにも苦痛から開放されるのか。そう驚くばかりである。
あの頃を思い返そうとしても、彼奴の声も、顔も、香水の香りも、体温も、仕草も、何もかも記憶がぼやけてしまう。
ただ、何処かから聴こえる波の音が記憶の中で響くだけ。
『貝殻』
9/5/2024, 1:57:37 PM