鳳羅

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『青く、深く』

あの日、彼女は海に呼ばれた。

町外れの崖の上から、遥か下に広がる海を眺めるたび、藍色の波がそっと心を撫でるのを感じていた。幼いころに失った記憶の断片が、その青さの中に眠っている気がしてならなかった。

「青く、深く——」彼女はつぶやく。「なぜこの言葉が胸から離れないの?」

祖母の残した手紙にはこう記されていた。

> “海の底には、まだ語られぬ約束がある。”

その一文を頼りに、彼女は小舟で夜の海へ漕ぎ出した。月明かりに照らされた波間は、まるで別世界のように静まり返っていた。

やがて、舟の下からぼんやりと光が浮かび上がる。水面下に眠る石造りの回廊、海藻に覆われた扉、そこに刻まれた古代文字。その一つ一つが、彼女の過去と繋がっていた。

深く、さらに深く潜るほどに、彼女の中に眠っていた感情や記憶が目覚めていく。青い海は、ただの自然ではなかった。それは彼女自身の心だった。蓋をしていた悲しみも、決して消えなかった希望も、すべてがそこに息づいていた。

そして、最も深い場所——“約束の間”と呼ばれる神殿で、彼女は幼き日の自分に出会う。

「あなたは忘れたわけじゃない。選んだの。前に進むために。」



それ以来、彼女は毎夜、海へと足を運ぶ。もう記憶に怯えることはない。なぜなら彼女は知っているのだ。

心の奥底にこそ、本当の光があることを。

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『青く、深く』 続章:記憶の礁(いくりのしょう)
“約束の間”を出た彼女の頬を、潮の流れが優しく撫でていった。かつて沈めた痛みと向き合ったあとに残ったのは、悲しみではなく、静かな決意だった。
「まだ——何かが呼んでる。」
神殿の奥には、封じられていた通路があった。珊瑚に覆われた扉を指でなぞると、文字が淡く浮かび上がる。
> “記憶の礁を越えて、真の光へ至れ。”
その瞬間、海の色が変わった。深い蒼が、夜明けの群青へと溶けてゆく。彼女のまわりに現れたのは、彼女の記憶からこぼれ落ちた影たち——幼い日の夢、消えた笑顔、交わされぬ言葉。だがそれらは、もう彼女を縛るものではなかった。
「もう隠さない。わたしは、歩いてゆく。」
彼女が進むたびに、影たちは光となって消えていった。そしてついに、記憶の礁の先に、ひときわ輝く扉が現れる。そこには、再会の気配があった。海の底に遺された、たったひとつの祈りとともに。

この先には、誰が待っているのか。彼女は誰の願いに触れ、どんな選択をするのか。それはまた、別の深みで語られる物語。

6/29/2025, 12:11:12 PM