川柳えむ

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 この世界は数年前まで魔王の影に怯えていた。世界征服を企む魔王は、その凶悪な能力を持って、人間を恐怖のどん底に落としていた。
 そう。数年前まで、この世界に勇者が現れ魔王を倒すまでは。
 勇者一行は魔王を討ち、世界には平和が訪れた。
 人々は勇者に感謝した。人々は幸せだった。きっと、この世界が平和になって、勇者達も幸せだと思っていた。
 人々は勇者達が多大な犠牲を払っていたことを知らなかった。

 どこを見るでもなく、外をただぼんやりと眺めていた。
「今日は道具屋の材料集めだよー!」
 泊まっている宿の部屋に、一人の女が元気良く入ってくる。そして、ぼんやりしている男を見て、小さく溜め息を吐いた。
「もうすぐ出発するよ。準備してね」
 彼女はそう一言だけ告げると、パタンと小さな音を立て、部屋から出て行った。
 彼は特に反応しなかったが、聞いていたようで、仲間数人で材料集めへ出掛けていった。

 戻ってくると、もう夕方だ。
 町の広場から音楽が流れてくる。たまに訪れる吟遊詩人の歌声だ。
 この町に滞在して数日。何度かその様子は目撃していた。ただ、今日はいつもと違った。この声に、聞き覚えがあった。

 彼等は走り出した。
 広場に佇む吟遊詩人。それは、よく見知った人だった。
「死んだかと思ってた……」
 彼が、吟遊詩人の姿をした女に向かって、絞り出したような声で言う。
(今まで何してたんだよ)
(会いたかった)
(生きてて良かった)
 言いたいことはまだたくさんあったが、ただ一言だけ。
「おかえり」
 仲間達みんなが、手を差し出して彼女に向かって笑い掛けた。

「――誰ですか?」
 吟遊詩人が言う。
 その言葉に、まるで雷にでも撃たれたかのような衝撃を受けた。
 彼女は、全ての記憶を失っていた。

 彼女を連れて宿へとやって来た。
 出会ってから今まであった出来事――自分達は魔王を倒した勇者一行で、女がその仲間だったこと。そして、その際に死んだと思われていたこと――たくさんの思い出を彼女に話した。しかし、とうとう記憶を取り戻すことはなかった。
「なんで」「どうして」そんな疑問ばかりが仲間達の胸中に渦巻く。
「今日はもう寝よう」
 話を切り上げ、それぞれが床に就いた。それぞれの想いを胸に。

 翌朝。
「おはようございます」
 聞き慣れない敬語で、食堂で会った彼女は彼に挨拶をした。
「おはよう……」
 どう接していいかわからず、お互いに口数が少なくなる。
「あの……」
 彼女がゆっくりと口を開いた。
「……よければ、私も旅に連れて行ってくれませんか」
 どうして急にその考えに至ったのかわからず、面食らう。
「だって、もしそれが本当に私だったら、きっと大切にしてもらってたんだろうと思って。それに……純粋に楽しそうだなって!」
 彼女が笑う。
 その顔が、よく知った笑顔で、彼もつられて笑ってしまった。
「あぁ、もちろん」

 覚えていないのなら、また最初から始めてればいい。元々知らない者同士で始まった物語なのだから。
 0からでも、きっと楽しい旅になるって、もうわかっていた。


『0からの』

2/22/2024, 9:48:22 AM