大学生の男は、古びたアパートの一室に一人で住んでいた。周囲の音は静まり、隣人も顔を合わせることはない。だからこそ、この狭くて安い部屋が他に比べて居心地が良かった。かすかな埃と生活臭が染み付いたような匂いが漂う部屋で、彼は勉強に励んでいることが多かった。古い木の床の上に置かれた家具はどれも年代物だが、それでもどこか温かみがあり、落ち着く空間となっていた。
だが、その静けさが壊れたのは、ある晩だった。
ドアのノック音が静寂を破った。男は少し驚きながらも立ち上がり、ドアを開ける。そこには見知らぬ女が立っていた。彼女は年齢も分からず、顔色は青白く、まるで生気がない。長い黒髪が顔にかかり、表情を窺い知ることはできない。ただ、彼女が纏う異様な雰囲気だけが、男に伝わってきた。
「隣の者です。余ったので、よければ食べてください。」
その声は、嗄れていて、まるで地下室から響いてくるようだった。その言葉だけが、男の胸に冷たいものを押し込んできた。鍋を手にしているその女の手は、まるで蝋細工のように硬直しているかのように見えた。無下に断るのも気が引け、男は渋々鍋を受け取った。
だが、その匂いが部屋に入ってきた瞬間、男の顔色が変わった。腐ったような、生ゴミのような異臭が鼻を突き刺し、思わず喉を押さえた。胃の中で何かがひっくり返りそうだった。無理して食べることはできないとすぐに理解し、男は鍋を無言で返すと、女は何も言わずに去った。振り返ると、女の姿はもうどこにも見当たらなかった。
『なんなんだよ気持ち悪い』
男は一人、深く息を吐きながらドアを閉める。その後、静かな部屋に戻ったものの、胸の中には不安が広がっていた。
それから数日後、男のスマホに届いたのは、意味不明なメールだった。送り主は名前を名乗らず、「あなたをずっと見ているよ」とだけ書かれていた。ぞっとするような寒気が背筋を走り、男はそのメールをすぐに削除したが、心の奥底に不安が残った。気持ちが悪い。誰かが自分を監視している—その感覚は、日を追うごとに強くなっていった。
ある日、外出先で男はスマホを部屋に忘れてきたことに気づいた。面倒だなと思いながらも、必要なものだし取りに戻ろうと決めた。歩きながらもどこか不安がつきまとう。部屋に戻ると、何となくいつもと違う気配を感じた。普段置いている場所にスマホが見当たらない。ポッドの位置も、少しずれている。まるで誰かが部屋に入った後のようだった。
普段と違う気配が漂う中、ふと壁に目をやると、そこに1センチ程の小さな穴が開いているのが目に入った。
「こんなところに、穴なんてあったか?」
思わず近づき、穴を覗き込む。最初は真っ黒で、何も見えなかった。
しかし、しばらくその黒い空間を凝視していると、突然、何かが動いた気配を感じる。男の視線が穴の奥に吸い寄せられるように、更に深く覗き込んだ。
その瞬間、暗闇の中に何かが浮かび上がった。それは、予想もしなかったものだった。
目だった。
目の奥に、無機質な光を放つ、真っ黒な瞳がこちらをじっと見つめていた。男はその目を見た瞬間、体が硬直し、全身に冷や汗が流れた。
思わず後ろに飛び退きたくなったが、目は穴の中から一切動くことなく、男をじっと見つめ続けている。
視界が揺れ、心臓が激しく鼓動を打つ中、壁越しに一言だけ聞こえた。
「ずっと見てたよ」
その声は、あまりにも近く、あまりにも冷たかった。
その瞬間、男は息を呑み、震える手でスマホを取り出して警察に電話をかけた。言葉を絞り出した。「隣人の女が、部屋を…」その言葉が口を発したとき、突然、ドアノブがガタガタと揺れ、重い音が響いた。
男は目を見開き、背筋が凍った。ドアがゆっくりと、不気味な軋みを上げながら開く音が、部屋の中に響く。
ガチャリ。
扉が開いた。
その先に、あの女が立っていた。
2/5/2025, 2:28:17 PM