『僕と一緒に』
やらかした。
まさか自分がこんな醜態をさらすとは。
腹の傷を押さえながら、重たい身体を引きずる。
運悪くヴァンパイアハンターに遭遇し、
あろうことか深手を負ってしまった。
いつもなら返り討ちにできたはずだ。
だが――今宵は新月。
吸血鬼の力が最も弱まる夜。まったくついていない。
そうして辿り着いたのは、森の奥にひっそりと佇む
古びた教会。ひび割れた石畳、崩れかけた祭壇。
ただ一枚、色褪せぬステンドグラスだけが
月光を受けて、堂内を幻想的に照らしていた。
指先から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
忌まわしい神の御許に膝をつくとは
――なんとも皮肉だ。
ふと、視界の端に影が差す。
ぴんと立つ耳、揺れる尻尾、
チャリ、と床を打つ爪の音。犬ではない。狼だ。
ああ、獣に喰われるか。それもまた一興。
だが次の瞬間、狼は揺らめく影と共に
青年の姿へ変わった。金色の瞳が闇に光る。
「おまえ、怪我してる」
耳元で低い声が響く。
「死にたいのか?」
掠れた声で、かろうじて答えた。
「……生き、たい」
その言葉はあまりにも弱々しく、
我ながら自分らしくない。
青年――人狼は一瞬だけ躊躇したように眉を寄せ、
それから首筋を差し出した。
獣の匂いに混じる、どこか澄んだ芳香。
抗いがたい渇望が込み上げる。
ごくりと喉が鳴った。
あの夜、口にした人狼の血は酩酊するほど甘美で、
これまでのどんな人間の血よりも格別だった。
⸻
それからだ。この寂れた教会に、
しばしば足を運ぶようになったのは。
目的は言うまでもない。あの黒狼だ。
「また来たのか」
マントを翻して降り立つと、
彼は決まって呆れ声を洩らす。
その素っ気ない反応さえ、妙に気に入っていた。
「なあ、どうしてあの夜、僕を助けた?」
気になっていたことを尋ねると、
人狼は視線を逸らした。
ステンドグラスを透かした光が、
精悍な横顔を青や赤に染める。
「……ご主人が、困っている人がいたら
助けてあげなさいと言っていたから」
ご主人――かつてこの教会に仕えていた
人間のことだという。
人狼は居場所を与えてくれた主に敬意を抱き、
その帰りを今も待っているのだとか。
「あの人は話してくれた。教会に来る者は皆、
神の子だと」
神の子、ね。
思わず笑みが零れた。
まったく反吐が出る。
人狼という吸血鬼にとって宿敵とも言える相手が、
人間の言葉に縛られ続けているとは。
気づけば口をついていた。
「僕と一緒に来ないか?」
天気の話でもするように軽く言ったつもりだった。
だが、声の端に熱が滲んでしまったかもしれない。
人間の娘を誘う時なら、もっと余裕を持って微笑めるのに――この狼の前では、どうにも上手くいかない。
金色の瞳がわずかに揺れ、彼は唇を噛んだ。
一瞬、答えを迷うように拳を握る。
だがやがて、静かに首を横に振った。
「……おまえとは一緒に行けない」
拒絶の言葉に胸が刺される。
だが、視線の奥に確かな動揺を読み取った僕は、
口角を上げた。
「いいさ。答えは急がなくていい」
強がりを隠すように肩をすくめる。
「どうせ僕らは長生きだからね」
風が吹き抜け、ステンドグラスがわずかに震えた。
色とりどりの光が、二人の影を重ねる。
時間がかかってもいい。
いつか必ず、振り向かせてみせる。
永い永い夜は、まだ始まったばかりなのだから。
9/24/2025, 8:15:11 AM