「夜景」 小説
菜々子はゴッホの『夜のカフェテラス』のことを思い出していた。あの絵には暖かさを求める何かがあって、孤独で寂しいと言うよりは、星の瞬きの下で大いなるものと交信しているゴッホの魂があるのだと感じた。それは以前から、そう感じていた訳ではなく、いまこの瞬間に降りてきたものであった。目の前にいる夫が
「どうしたの?」
と訊ねたので、菜々子はワインを一口飲んだ。
「とても美味しいわ。またここに来たいと思って」
夫は微笑むだけだった。心の中で、次にここに来るのは、いつの記念日が良いかと考えているのかも知れなかったし、帰りの電車の時間を心配しているのかも知れなかった。
レストランの外に出ると、店の中の暖かな光が街路に広がっていて、美しいものに包まれた心地がした。夫の手を握りしめ
「今日は、ありがとう」と言うと、
「気に入ってもらえて良かったよ」
と、手を優しく握り返してきた。昼間、美術館で見たゴッホの絵には、夫婦らしき二人の人物が描かれていて、ちょうど絵の中の登場人物になったようだった。夜風が気持ち良かった。夏の気配を残しながらも、ゆるやかに季節が変わろうとしていた。
9/19/2023, 8:31:38 AM