〈遠い鐘の音〉
東京を出たのは十二月二十八日の昼過ぎだった。
特急の窓から見える景色が都会からのどかな風景へと移り変わっていくのを眺めながら、久しぶりに年末年始を実家で過ごすことへの不思議な高揚を感じていた。
実家は駅からバスで二十分ほどの、昔ながらの住宅街だ。
家の前で庭仕事をしていた母が、俺に気づく。
「おかえり。疲れたでしょう」
変わらない母の声に、ほっとする。
台所にみやげを置き、居間で一息つく。窓の外に見える景色も昔のままだった。
ただ、何かが違う。しばらく考えて、それが何なのか気づいた。
「あれ、寺の鐘、鳴らなくなったの?」
母は麦茶を注ぎながら頷いた。
「そうなのよ。
この辺も新しく越してくる人が増えてね。苦情が出ているからじゃない?
時計の代わりにしていたのに」
ニュータウンができ、子育てがしやすい町ということで、若い世帯が増えている。そのせいだろうか。
世知辛い世の中になったものだと思った。
あの鐘の音は、この街の時間を刻む音だったはずなのに。
翌日、近所のスーパーに買い物に行った帰り道、誰かに声をかけられた。
「お前、山本だろ?」
振り返ると、見覚えのある顔があった。小学校の同級生、山崎だ。
少し太ったが、笑顔は昔のままだった。
「山崎か。久しぶりだな」
「十年以上ぶりか?
お前、東京にいるんだって?ここから通えよ」
「二時間かかるぜ、イヤだよ」
しばらく立ち話をした後、山崎が言った。
「なあ、大晦日、暇か?
地域の会で除夜の鐘つくから、来いよ」
「え、でも鐘、鳴らしてないんだろ?
近所迷惑だから」
山崎は首を横に振った。
「違うんだよ。
住職が歳取って腰を悪くしたから、つかなくなったんだ。日曜の朝だけは鐘をついてるけどな。
今後どうするかは住職の考え次第らしい」
「あの住職がなぁ……」
二人で顔を見合わせて笑った。
小学生の頃、こっそり寺に忍び込んで鐘で遊び、住職にこっぴどく叱られたことを思い出したのだ。
「当日は甘酒や餅も振る舞うんだ。近所の子どもたちにも声をかけてる。
新しい人たちが馴染めるように、俺らも頑張ってるんだぜ?」
山崎の言葉に、自分の考えが浅はかだったことを思い知らされた。
大晦日の夜、寺に向かうと、思いのほか人が来ていた。
若い家族連れもいれば、見知らぬ顔もいる。新しく越してきた人たちだろう。
子どもたちが甘酒を飲みながら、はしゃいでいる。
十一時を過ぎると、人々が順番に鐘をついていった。ゴーン、ゴーンという音が、静かな夜に響く。俺も田中に促されて、綱を引いた。重い音が体に伝わってくる。
百七つ目まで終わると、住職が最後の一打を打つために前に出た。
腰をかばいながら、ゆっくりと綱を握る。
ゴォォォン……
最後の鐘が鳴り終わると、住職は深く一礼する。そして、山崎たち地域の会に向かって、穏やかな顔で言った。
「ありがとうな」
その背中を見て、胸が熱くなった。叱られた記憶の中の怖い住職ではなく、ずっとこの街の時を守ってきた人の背中がそこにあった。
鐘の音が消えかけたのは、時代のせいではなかった。人の体が、時を刻むことに耐えられなくなっていただけだった。
年が明けて東京に帰る朝、窓を開けると遠くから鐘の音が聞こえてきた。日曜の朝だ。
ゴォォォン……
遠くで鳴り終わる余韻を聞きながら、その事実を胸に刻んだ。
また帰ってこよう。今度はもっと早く。
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以前、「失われた響き」の時に書いてボツにしたお話です。プロットを読み返し、失われてないやーん!とセルフツッコミ入れました。
除夜の鐘は、酒呑みつつ紅白見て、遠くから響いてくるのを聴く派です。
12/14/2025, 6:36:16 AM