22時17分

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ゆずの香りが凝縮された内風呂から、開放的な露天風呂へ通じるドアを開く。外へ出ると柑橘系の香気の密度が一気に拡散する。
裸足で駆けていた子供は、はぁ、と一気に息を吐き出した。

初体験の香りだった。
そんなに良い香りだろうか?
初恋の人の香りがする、と母親は頬を染めていた。
気づけば振り返る香りがする、と父親は呟いていた。
どちらも鼻がバカになっている、と子供は悪態の顔をしていた。

父親の仕事場の保養地だった。
静岡県内。どちらかといえば、西日本寄り。
景色は富士山に嫌われている。こんなところ、熊でも寄り付かないと子供は思った。
経緯はよく知らないが、抽選で当たったらしい。
応募者多数で、抽選となります。
いわば宝くじのようなものだ。で、当たった。
安く泊まれるぞ――と父親は家族を連れて、3日ほどこの地で馴れぬ宿泊客をやっていた。

内風呂は、ゆずの香りで満たされていた。
大浴場の風呂に、いくつもの大玉のゆずがふよふよ浮かんでいた。いつから浮かんでいるのだろう、ソフトクリームのように、形を保てず溶けるのは時間の問題。
源泉かけ流しというから、そっちをメインに置いているかと思ったが、どうやら果物の匂いで誤魔化している。
すんすんと幾度か鼻腔を動かし、子供は眉をへの字にして鼻を摘む。
立ち込める水蒸気が、その匂いが具現化したみたいだった。色つきの毒ガス。
それで数メートルを、足を滑らす覚悟で小走りになって露天風呂に逃げ込んだのだ。

身体にまとわりついた匂いを、外の露天風呂で流すことにした。
子供はまだ未成年だったので、1人で風呂に行けなかった。絶賛反抗期に突入しているが、完全に拒否できるだけの勇気は持ち合わせていなかった。
いやいやながら、脱衣場まで一緒だった。
そこから先は、興味に先導されて駆け出したので、親は行方不明に。

香りの害と書いて、「香害」と言う。
そのことについて、頭の中の脳漿に浮かんできた。
これはスメハラみたいなもので、いくら香りの良いものを身体に纏わりつかせても、浴びるようにしたら周りに害が及ぶというものだ。
好きな人、嫌いな人。それは嗅がないと分からない。濃度もあるだろう。湿度も関係してくる。それが初恋の人なら思い出補正が入る。

香りは、微かな方が良い。
子供の敏感な鼻は客離れし、逆に大人の鈍感な鼻はリピーターになる。

年末になりゆく休日気分に浸る露天風呂。
身体を温めることにして、十分以上が経過した。
親は、まだ来ない。ゆずに絡まっているのか、湯けむり事件に巻き込まれているのか、人魚に魅了されているのか。

建物の壁を見やった。
そこには白い壁と、時計と、曇った窓が。
大きな窓の向こうには内風呂が見え隠れし、湯船の表面が見える。かけ流しの余波を受ける黄色い物体は、うようよと動いていて、そこに身体を沈める人たちが何人かいる。
誰が誰で、何者なのか分からない。けれど、子供以外の年上の人たちばかりだった。きっと、柑橘系の香りで長旅の疲れが取れると思っている。

子供は一人顔を歪ませた。
親の行方は、ゆずに尋ねるしかないのか、と。

12/23/2024, 9:34:58 AM