あめ

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ーーーお兄ちゃんが帰ってくる!

うきうきと跳ねる心を宥めながら、玄関の前で深呼吸をする。お兄ちゃんが帰ってくるのはお昼過ぎと聞いている。遅いお昼ご飯をみんなで食べようと言っていたので、まだ帰ってきてはいないはずだ。
「ただいま〜」
平静を装って玄関をくぐれば、途端にいい匂いが溢れてくる。釣られてリビングまで進むと、目に飛び込んでくるのはご馳走の数々。グラタン、トマトのパスタ、ハンバーグ。色とりどりのサラダは人参がまるでお花のように飾り付けられている。それにクロワッサンやフランスパンまで添えられていて、ひどく豪華だ。
「え、なになにご馳走じゃん」
よく見れば普段はないお花まで飾られている。見慣れたはずのリビングがまるで別世界だ。
「あら、おかえり咲ちゃん」
まだ何かを作っているのか、お母さんがせかせかと動きながら応えてくれる。
「だってお兄ちゃんが彼女を連れてくるって言うじゃない。盛大にお迎えしないと」
「……えっ」
急に目の前が真っ暗になった。お母さんが何を言ったのか理解できなくて、脳が言葉を咀嚼する前に心臓がばくばくと音を立てて手のひらにじっとりと嫌な汗が滲む。
あれ、咲ちゃんは聞いてなかった?とお母さんの声がどこか遠くで聞こえる。

いつか、こんな日が来るとは思ってた。
お兄ちゃん。
東京に行くために家を出て行ったお兄ちゃん。
優しくて面倒見がよくて、私がどんなにわがままを言っても困ったように笑って受け止めてくれるお兄ちゃん。
お兄ちゃんはカノジョ作ったりしないの?と聞いた私に、手のかかる妹がいるからなぁと笑ってたお兄ちゃん。

「ほら、早く手洗ってきちゃいなさい。それで手伝って。お母さん張り切ってデザートまで作っちゃったのよ」
お母さんの声にはっと現実に引き戻される。
テーブルに並んだご馳走、いつもより整理整頓されてすっきりとした部屋、こころなしガラスまでいつもより輝いて見える。
「えへ……」
笑おうとした口角は上がり切らなくて引き攣ったように歪んだ。
お兄ちゃんを出迎えて一層幸せに満ちた空間になるはずだったリビングは、一気に地獄への門を開いたようだった。
笑え、いつも通りに。何も気取られないように。
ぐちゃぐちゃになった心を隠すために、私は洗面台に走った。

『天国と地獄』

5/28/2024, 12:27:31 PM