名無しの夜

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 冷えた大気の更に先、真っ黒な天に向かって手を伸ばす。

 若木のような、細いけれど内にエネルギーを秘めたような力強さがある手。

 ——あれは誰の手だったっけ、と車窓に映る疲れ切った自分の顔を、その向こうの夜空を望むように思いを馳せる。

 あの時も多分こんな気分だった。
 だから、思い出したのだろう。


 分厚い過去問集。
 公式を覚えても、どこでそれを使えば良いのかさっぱりわからない、数多の問題。

『このままじゃ志望校、危ないぞ』

 そんなことわざわざ指摘されなくても自分がよくわかっている。
 追い詰められているのに、なぜ更に追い立てられなくてはならないのか。

 理不尽か不条理か。
 ほとんどの生徒が去った塾のビルの通路を歩きながら、誰にもぶつけることが出来ない怒りを歯噛みする。

 置きっぱなしの荷物がある教室は、もう一つ奥の部屋。

 手前の教室は消灯済だったけれど扉が開いていて、窓辺にひとけがあったものだから、つい覗き込んでしまったのだ。


「あれ……、——さん……?」

 窓辺で佇んでいたのは、その塾にいるはずのない背の高いショートカットの少女。

 呼び声に間髪入れず、少女が振り向く。

「え? えーっと……?」

 光源は窓の外の街明かりだけ。
 薄闇の中でも、少女が困惑した表情で首を傾げているのがわかる。

「あ、ごめんね。私、同じ中学の——」

 ショートカットの少女がこちらを知らないのも無理はなかった。

 同じ学年だがクラスは違う。
 それに彼女はバスケ部のエースで、校内では有名人だが、こちらはただの一般生徒。

 クラスと名前を言うと、少女はそうだったんだ、と済まなそうに会釈を見せた。

「何してたの? というか——さん、この塾にいたんだ?」

 見かけたことなかったけどなぁと思いつつ問えば、体験入学だよ、との答えが返ってきた。

「推薦、ダメになっちゃったからさ。——勉強しないとで」

 けどなかなか厳しいよね、と笑い声を立てた。

「あ——怪我だっけ……」

 ゴメンと謝ると、何で、と笑顔が降ってきてたまらず目を伏せる。

 気にされると余計辛いわ、と冗談めかして言われ。
 窓を開ける音に、視線を上げた。

「こんな街中でもさ、あの星座だけはよく見えるよね」

 ほら、と少女が天を指差す。

「ああ……、オリオンね」

 何となく笑みが浮かぶ。
 ショートカットの少女もニコリと笑う。

「こうやって、手を伸ばすと——ね?」



『……ぎは、○○駅〜〜——線にお乗り換えの方は……』

 ハッと目を開ける。
 立ったままうっすらと、眠っていたようだ。


 ほどなく到着した駅に降り立ち、改札を過ぎる。

 誰もかれも忙しなく、どことなく不機嫌そうに駅前の交差点へと流れていく。

 その往来に逆らわず歩きながら、そっと夜空を見上げる。


 ——冬空の、オリオン。

 あの時、彼女は何と言っていたっけ。


 大通りから裏通りへ差し掛かる帰路を辿りながら、ためらいがちに暗い空へと手を伸ばしてみる。


『手が、繋げそうな気がしない?』

 秘密めかして、彼女は笑った。


 ……寒空をともに歩む、同士がたとえいなくても。


「そうだね——手を繋いで、帰ろうか」


 小さく、昔と同じように笑って、家路を急いだ。

12/19/2023, 7:27:57 AM