汀月透子

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〈秘密の手紙〉

 小さな物音に気づいたのは、夜のニュースが始まる前だった。

 廊下を歩くと、妻が和室の隅で小さな箱を膝に置き、何やら手紙を読んでいる。
 返事らしきものを便箋に書き、封筒に入れ、そっと箱に戻す。蓋を閉じる指先は、まるで壊れものを扱うように優しかった。

「誰に返事を書いているんだ……?」

 声をかけかけて、私は口を閉じた。
 長年連れ添ってきたはずなのに、あんな表情は初めて見る。もやもやと、妙な感情が湧いた。

 その晩、妻が風呂に入ったすきに、つい小箱の前に立ってしまった。
 開けるな、と自分に言い聞かせる間もなく、指は蓋を持ち上げていた。

 中には、色あせた封筒がぎっしりと並んでいる。ひとつを取り出すと、見覚えのない丸い字が目に飛び込んだ。

『16歳の私から、40歳の私へ』

 40歳――妻が一番忙しかった頃だ。
 別の封筒を開けば、

『28歳の私から、78歳の私へ』

 今の妻に向けた手紙。
 時を越えた“自分自身”への手紙だと気づいた瞬間、便箋が急に重く感じられた。

「日記みたいなものなのか?」

 つぶやいた拍子に、封筒の束が箱の中で崩れ、ぱさりと床に散らばった。慌てて拾ったところで、背後が声がした。

「何をこそこそ見ていたんです?」

 振り返ると、湯上がりの妻が、髪をタオルで押さえながら立っていた。
 私は言葉を失った。

「い、いや……その……」
「ふうん。返事に困るということは、後ろ暗い気持ちがあったのね」

 妻は私の手から便箋を取り上げ、ため息もなく言った。

「見られて困るものじゃありませんよ。どうぞ」

 畳に腰を下ろし、一つの手紙を広げて見せる。

『16歳の私から、40歳の私へ』
『泣きたい日もあるでしょう。
 でも、あなたはちゃんと大人になっているはずです』

『28歳の私から、78歳の私へ』
『私の目標はかわいいおばあちゃんになること。目標は果たされましたか?
 あの人と仲良く暮らしていますか?』

 私は聞かずにいられなかった。

「……これは全部、お前が書いたのか」
「そうですよ。話せないことが多かったから。
 誰かに聞いてほしいのに、言ったってあなた生返事しかしなかったじゃない」

 妻の言葉に胸がちくりと痛む。

 思い返せば、確かにそうだ。
 仕事に疲れ、面倒くさがり、妻の話を半分しか聞いていなかった。

「それで、自分に手紙を書いて、返事も書いていたのか」
「はい。愚痴も、不安も、悲しさも。
 でも、うれしいこともね。愚痴ばかりじゃありませんよ」

 妻は小箱から別の封筒を取り出し、私に渡した。
 そこにはこう綴られていた。

『45歳の私へ』
『あの人が珍しく誕生日を覚えていて、ケーキを買ってきてくれた。恥ずかしそうで、かわいかった』

 顔が熱くなった。
 そんなに喜んでいたなんて、知らなかった。

「……悪かった。
 お前がつらい時、ちゃんと気づけなくて」
「もういいんです。昔のことですから」

 妻は膝の上の小箱をそっと閉じ、しばらくそれを撫でた。

「これはね、人生のアルバムみたいなものなんです」
「そうか……」

「でもね、あなた宛の手紙もあるんですよ」
「……俺に?」
「ええ。いつか読む時がくるでしょうけど、まだ見せません。
 私の最後の一通ですから」

 “最後の一通”。
 それを読む時の自分は、どんな顔をしているだろう。
 戸惑った私に、妻は柔らかく笑った。

──

 その夜、布団に入っても眠れなかった。
 妻がどれだけの思いを抱え、どれだけ私を思いやりながら生きてきたか──思い返すほど胸が痛む。

 妻が私にしてくれたことを、覚えているつもりでいて実は覚えていなかったのではないか。
 朝の味噌汁の湯気、弁当の匂い、疲れて帰った時のひと言。
 あれらは全部、妻が黙って差し出してくれた“手紙”のようなものだったのかもしれない。

 そして私は、それに返事をしたことがあっただろうか。
 ……いや、ほとんどない。

 私は起き出し、自分の机の引き出しを開けた。
 古い便箋と封筒を取り出し、しばらく見つめる。

 「……書くか。俺も」

 何を書くべきだろう?
 謝罪か、感謝か、長年言えずにいた言葉か。
 書き始めればどれも照れくさく、どこかで言い訳をしてしまいそうだ。

 そしてふと考える。
 この手紙を、どこにしまっておこうか。
 机の奥か、タンスの引き出しか。
 いや、小箱の底にそっと置いておくのもいい。

 妻がいつか見つけたとき、どんな顔をするだろう。
 胸に温かい緊張を抱えながら、私は小さく息を吸った。

──さて、何から書こうか。

 妻の寝息を聞きながら、その一行目の言葉をずっと考えている。

──────

子育てや仕事のことで悩んで眠れなかった時代、子供に向けて手紙を書いていました。
(相当昔です)
20年ぶりにそれを見つけ、がんばったねとその頃の自分を慰めて、手紙をシュレッダーに。
手紙を燃やしてお炊き上げする時代じゃないですからねぇ。

このお話の妻さんも、もっと秘めた想いはお炊き上げしてる……はず。

12/4/2025, 11:42:34 PM