『お願いお月様』
網戸を開けると、からりと乾いた音がする。
一歩踏み出した足がスリッパに収まると、途端にひんやりとした夜風に体を包み込まれた。
今日は大きなお月様が登っていた。
街灯など必要ないほどの明るさで、くっきりと夜空に浮かび上がっている。
流れる髪を耳に掛けると、わたしはバルコニーの手すりを掴み、背伸びをして、少し身を乗り出す。
その瞬間、
「危ないから」
と、声がし、わたしは驚いて下を見た。
立ち並ぶ三角屋根の、真っ直ぐに伸びた道。
そこで、さっき自分の部屋の隙間からこっそりと見た、桜色のパーカーが浮かび上がっている。
表情こそ分からないが、きっと怖い顔をしているだろう。
戻りなさい、と口が動いたような気がした。
わたしは仕方なく、手すりから手を離すとその場でしゃがみ込む。
すると、わたしの姿がなくなったからか、またこちらに背を向け、歩き出すのが手すりの隙間から見えた。
その姿を見つめながら、わたしは恨めしいような気持ちで夜空を見た。
「お願い」
わたしの口から、か細く声が漏れる。
玄関口でトントンと靴を鳴らす音。
起きているわたしを知りながら、ちいさく
「いってきます」
という声が蘇る。
もう一度、素知らぬ顔をしているお月様を見つめていると、涙が頬を伝った。
きゅ、と唇を噛んだ。
お月様。お願い。おかあさんを連れていかないで。
2024/05/26
5/26/2024, 11:59:55 AM