今日はツイてない。俺は深くため息をついてから、Yシャツの袖をまくった。躊躇っていても仕方がないので、腹をくくってトイレブラシを手に取る。
まず「床のモップがけと便器掃除、それぞれどちらが担当するか」をじゃんけんで決めることになった。その結果、俺はパーを出し、佐倉はチョキを出した。ただでさえ、トイレの掃除当番というだけで憂鬱なのに、俺は便器磨き担当になってしまった。
モップ担当の佐倉が、さっきから上機嫌に口笛を吹いているのが腹立たしい。けれども俺がパーを出した事実は変えられないので、俺は黙って便器をこする他なかった。
と、ふいにムカつく口笛がやんだ。と思ったら佐倉は「そういえばさあ」と切り出した。
「尾上ってさ、アレしたことあるの?」
「アレってなに?」
「だからアレだよアレ。人間と人間がさ、口と口をこう、合わせるやつ」
「……え、キスのこと?」
「そう。Kissのこと」
「なんだよそのキモい言い方」
便器を磨く手を止めて「何急に?」と聞けば「いいから答えろよ。あるの、ないの」と返ってくる。いったい何なんだ、藪から棒に。
「いやまあ、ないけど」
「あーやっぱりね」
「やっぱりってなんだよ失礼だな」
「予想どおりって感じ」
「てかお前はどうなの。したことあんの?」
「……ま、ね。ないけど、俺も」
「ねえのかよ。何なんだよお前」
まじで何なんだ。キスをしたことがないことを、互いに発表し合っただけの時間。
「いやさ、どんな感じなんかなぁと思って」
「……何が?」
「Kissが」
「だからやめろってその言い方」
「なんか一説によると、キスの感触ってマシュマロに似てるらしい」
思春期か。いやまあ、17歳は思春期か。
とにかく真面目に聞く価値はないと判断して、俺はトイレ掃除を再開する。
「俺たちってさ、やっぱキスの感覚も知らないまま死んでいくのかな?」
「おい『俺たち』ってなんだよ。一緒にすんな」
「いや一緒だろ。俺ら目くそ鼻くそだよ」
カチンときて、俺は手に持ったブラシをスイングした。飛び散った水に、佐倉は「ぎゃあ」と悲鳴を上げて飛び退いた。
「お前っ……やっていいことと悪いことがあんだろ!」
「お前が先に喧嘩売ってきたんだろうが」
「ああ!?」
佐倉はモップを放り出して、俺に掴みかかろうとしてきた。すかさず応戦しようと一歩踏み出した瞬間、うっかり濡れたところを踏んでしまって、ずるりと足が滑った。勢い余って、佐倉を巻き込んで倒れ込む。
「…………」
「…………」
下敷きにした佐倉と目が合う。佐倉は、呆然とした顔で俺を見ていた。しばらく見つめ合ってから、佐倉は「尾上」と口を開いた。
「俺らさ、やっぱ一生Kissできないよ」
「……そうだな」
俺は素直に認めた。トイレで取っ組みあった挙句に、二人揃って床にすっ転んでいる奴らに、そんな甘酸っぱい青春がもたらされるはずがない。そう思ったらなんだかどうでもよくなって、さっきまでの怒りが嘘のように、心が凪いできた。
「なんかごめん、佐倉」
「……いや、俺の方こそ言い過ぎた。ごめん」
タイルに倒れたまま、俺たちは謝罪し合った。そして、どちらからともなく笑った。
その日、俺たちはたしかに、本当の親友になったのであった。
【テーマ:Kiss】
2/4/2026, 11:24:26 AM