寿ん

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「奇跡をもう一度」


ーーあの日、わたしの手が彼女に間に合っていたなら。

階段を12段落ちた彼女は、頭こそ打ったけれどしばらくして目を覚ました。
念のための検査入院ということだけれど、助けられなかったわたしに責任がある。そう思ってお見舞いに行くと、病室に入ったわたしを見るなり彼女はベッドに座ったまま
「すみませんでした」
深々と。
「いくら熱があったからって、あんな、変なこと口走ってしまって……困らせてしまってごめんなさい」
こんなときは何を伝えるべきか。嘘かもしくは本音か。
「……全然、ええよ。大丈夫。実はなぁ」
わたしは隅っこのパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「あのとき周りうるさすぎて。なんて言ってたんか分からんかってん」
はっとしたように顔を上げて、ほっとしたように彼女はほほ笑む。
「なら、よかった」
「退院はいつになるん?」
「明日の検査次第だけど、たぶん明後日とか、すぐです」
「ほな来週からは学校来れそうやな」
「はい」
彼女は清潔感のある白いパーカーを、ファスナーが上まで閉まっているか指で撫でた。下にはパジャマを着ているのだろう。
「先生の」
手を下ろした。
「授業、受けれないの寂しいです」
「そんなこと気にせんでも。けどとりあえず無事でよかったわあ、奇跡やな」
「大袈裟ですよ」
右手を口元に添えて笑った。
「階段から落ちたって、たったあれぐらいで」
「あれぐらいって。……なのな」
言葉は選ばない。思ったことは全て素直に伝えたい。
「わたしはな、福井。福井が無事でほんまによかったと思ってる」
一瞬だけ、彼女の表情が崩れかけた。
少しの間うつむいて、彼女はくいっと口角をあげた。
「先生とこんなにおしゃべりできてよかったです。落ちて正解やったかも」
膝の上でぎゅっと握られた小さな手に、どんな思いを隠しているのか、わたしは知らないふりをする。
「……そうか、大学は落ちんなよ。それとも」
腰を上げた。
「もう一回階段から落ちてみる?また奇跡が来ると信じて」
「やぁ、もうやめときます」
「それがええわ。……ほなな、そろそろおいとまします。学校で待ってるよ」
なめらかに動くスライドドアに手をかけた。
「先生」
「はあい」
「ありがとうございました」
「いーえ」
廊下に出ると、ちょうど通りかかった看護師に会釈された。礼を返して、エレベーターに向かう。
あの日、間に合わなかった手。届いていたなら今日の会話はなかったかもしれない。それでも届いてほしかった。
彼女を助けたいという心は、本物だから。
「ーーっ」
矛盾。なにが。おれの感情か。

さっきなら届いたはずの手を、思わず握りしめていた。



                  『彼女と先生』

10/3/2024, 6:07:05 AM