一尾(いっぽ)in 仮住まい

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→短編・
  僕と会う日、彼女は左薬指の指輪を外す。
             (改稿 2024.8.12)

崖の上から、僕は下を覗き込む。
崖下に当たった白い波が、泡を立てて砕けた。何度も打ち返す。この崖も少しずつ侵食されているのだろう。
波間に麦わら帽子を見つけた。海に飲まれることなく浮かんでいる。
為す術なく揺れる麦わら帽子を見ていると、思わず体が海に引っ張られそうになる。僕はよろけながら崖から少し下がった。

あの麦わら帽子、彼女のによく似ていたな。麦わら帽子にワンピースは彼女の夏の定番スタイル。
若い頃に買った物なの。ごめんなさいね、古臭いわね。
そんなことを言って、彼女は目を細めた。目尻のシワが深くなる。僕の好きな顔。
彼女の手が僕の頬を優しく撫でる。少し骨張った手のカサカサと乾燥した感触に、僕は彼女の人生を思う。彼女の生活が刻まれた手は、とても優雅な動きをする。僕の周りに彼女ほど美しい所作をする人はいない。
彼女との出会いは一つの奇跡だ。
僕は彼女との静謐な愛情は、何物にも代えがたい宝物だ。
それを守るためなら、僕はなんだってできるよ。

何でも美味しそうに食べるわね、と彼女は食事のたびに、僕がたくさん食べるのを喜んだ。
昔よりもすっかり食が細くなってしまったわ。何事においても、定量を超えると胸焼けしてしまうのよ。
自嘲的に鼻を鳴らした彼女の目に、僕の間抜けな顔が映っている。
そんな風に笑わないでよ、と僕は懇願した。
背徳の蜜は、私には甘すぎるのかもしれないわね、と彼女は遠くを見た。

繋いだ手のひら。
いつもはない違和感が何度も僕の手を刺激する。
どうしてそんなものを嵌めてるのと聞いても、彼女は答えなかった。
だから僕は……。

あぁ、考え込んでしまっていたな。夏の太陽に照らされた全身から汗が噴き出している。
服の背中が濡れるほどの汗。
おかしいな、頭がズキズキする。
熱中症かもしれない。
崖を離れようと彼女の手を引こうとして、僕は慌てる
さっきまでいたはずの彼女がいない。

波の砕ける音に混じって、サイレンの音が聞こえくる。
僕の肩が乱暴に掴まれた。

振り向くと僕の背後には、数名の警察官の真剣な面持ちが並んでいた。
「8月12日、14時02分、殺人の容疑で現行犯逮捕します」

……。
そうか……、そうだった。
僕は自分の両手に目をやった。
赤く染まった手と、同じ色をしたこぶし大の石。
僕の願いは彼女にあの指輪を外してほしい、ただそれだけだった。
ただそれだけだったのに、どうしてあんなに抵抗したの?
あの取り乱し方は君らしくなかったな。
僕たちの穏やかな愛にそぐわないなものは、何一つ要らないんだよ。
僕は前からそう伝えていたよね?

「ところで、お巡りさん。
彼女の麦わら帽子は、もう波間に消えてしまいましたか?」

テーマ; 麦わら帽子

8/11/2024, 4:48:23 PM