夜の海に潮騒が響いている。
海岸に置き忘れたランプのそばで、紺色の影がユラユラと揺れている。
「最近はよく表に現れているな、過去」
山高帽の男が影に向かって声を掛けると、紺色の制服に身を包んだ過去が振り返った。
「本体も薄々気づいているぞ。見えないけれど確かにある──ガムシロップを水に溶かした時の様な映像が見える──とな。そしてその時はよくわからないが、普段思い浮かばない文章が浮かぶ──と」
ランプに照らされた過去は、皮肉げな笑みを浮かべた。
「人をガムシロップに例えるやつがある?」
「ここにはいるのさ。しかし、本体が感知すると逃げるのだから、ガムシロップとしてはいただけないけどな」
過去は肩を竦めると、波立つ海を横目に見た。
「カードの時の様なピンポイントの明かりではなく、お前の場合は全体にまで行き渡ろうとする。浸水或いは、浸透という言葉が相応しいか?」
「私の事をどう捉えようと、それはあなたの自由。好きに捉えて構わない」
思考の海から目を離さず、過去は淡々としている。
「あの文章もお前だな」
海を見ていた黒い瞳が、こちらを向いた。
感情の読み取れない黒い瞳が、ジッとこちらを見てくる。
見つめ合うだけの無言の時間が暫し流れる。
過去は、緩やかな笑みを浮かべると沈黙を破った。
「言葉によるバタフライエフェクトを期待してね」
「バタフライエフェクト?」
「一つの言葉が誰かの元で響き、その誰かが抱く感情がまた別の誰かに届き、別の誰かに届いた感情が別の何かを動かしていく。過去と未来が重なるのが今なら、言葉は軽やかに時をも超えていく。言葉に表した本人が預かり知らぬところで、一人でも幸せになる人がいれば良い。あれはそういうもの」
海風に規定の長さのスカートがはためく。
黒い瞳はどこか遠い所を見ているが、その目からは何も読み取れない。
「言葉は呪いにもなり得るのだぞ」
「どんな良い言葉も捉え方次第。世界とはそういうものでしょう?」
何を言っても過去はどこ吹く風だ。
はぁ…と深い溜息をつき、山高帽の鍔に触れる。
「…それほどまでに、今が楽しいのだな?」
そう言ってやると、過去は意味深な笑みを浮かべた。
その笑みに思わず身構えると
「雨に佇む世界は、終わったのね?」
首をわざとらしく傾げこちらを見てくる。
まったく、これだから過去という奴は。
このまま引き下がるのも癪なものだ。
思考の海の番人を舐められては困る。
「木は何の夢を見ている?」
山高帽の男の問に過去は苦笑を浮かべた。
「太古の海の夢」
「人が海に帰らなかったのは?」
「空に海と同じ色が広がっていたから」
「夜空に輝く星の正体は?」
「星が今までに見た夢の残り香」
「海は何の夢を見ている?」
「この世界のこと」
懐かしい言葉たちだ。
目の前の過去が紡いだかつての言葉たち。
物語において、少年二人が互いの仲を深める為の問答だ。
物語後半のこの言葉も忘れてはいけない。
「類は友を呼ぶっていうだろう?」
「じゃあ、僕も『スプーキー』だ」
少年達は問答の末、互いの中に共通を見つける。
その事実は孤独を感じていた少年に揺るぎない安心を与え、互いの存在を讃え笑い合う。
過去も今も言葉は巡り巡る。
一度放たれた言葉は、形を変えて持ち主の元へ返ってくる。
雨に佇む必要がなくなった男と過去は、声を上げて晴れやかに笑いあった。
8/27/2024, 2:28:32 PM