僕、実は子どもの頃に一度だけ、海の底に行ったことがあってね。
……誰も信じてくれないから、このことを人に話すのはずいぶん昔にやめてしまったけれど。
小学生の時に。海で溺れていた僕を、人魚のお姫様が助けてくれたんだ。優しい目をして、儚げな雰囲気のひとだった。水中でゆられる明るい色の髪が、差し込む陽の光に照らされて、きれいだったな。
彼女はそれから、海の底の世界を案内してくれて……海の底は真っ暗だと思うだろう?
ところが、違ったんだ。色とりどりの魚に珊瑚がきらびやかに踊って……本当に、夢のような世界だったよ。
このさき一生、僕はあの光景を忘れないだろうな。
「どうしたの? 突然そんな昔の話をして」
婚約者の彼女は、柔らかく微笑んで言った。少し年上の、儚げな雰囲気の彼女。
いやそれがさ、今日君を見ていて、急に昔の思い出がよみがえってきたんだ。変だよね。
……あのお姫様、元気にしているといいな。
「大丈夫、きっと元気で暮らしているわよ」
僕はまた、宝石を宝箱に収めるみたいに、美しい思い出を心にそっとしまった。
『海の底』
1/21/2024, 1:53:24 AM