【沈む夕日】
トラズ湾を望む入り江と言えば、古パナロス朝の頃から有名だ。サザラニア大陸の西側北寄り、トラズ国の領土内、最も美しく最も暖かな海とされている。
トラズ国はその財源の大部分を観光で賄っているとも言われ、休暇にトラズ、という言葉は中流階級以上であればよく聞く言葉でもあった。観光地として最高級である宿を取れば話は別だが、安く済ませることは非常に容易で、簡単に言えば自分の身の丈に合った旅ができる。翻訳家のガイドを付けることもできるし、そのへんの子供に銅貨十枚握らせてもいい。そうすれば望みのものに近いトラズを見られるだろう。少なくとも何一つ収穫がないことはない。
街はパナロス風と呼ばれる、白い土を塗り込んで焼いたレンガを積んだ壁と、粘土を使った赤茶の瓦が組み合う建物が多く、建物は区画整理されていて、真っ直ぐな道が多い。家々を含む多くの建物は背中合わせに建っていて、背中同士の間に側溝があり、街の景観を汚すゴミや汚物はいつもそこに流される。側溝の行き先は海岸側のゴミの集積所で、どういう仕組みか、そこにゴミを集めて、肥料とそうでないものに分けるらしい。そこは見た者が少ないが、少なくとも周辺農家の出入りがあるので本当らしいとは言える。つまり、街中は驚くほど綺麗で、観光に行くなら旅行者はそれを守るマナーを身に付けなければならない。大抵は街の入り口で説明されるが、たまに不届き者がいる。そうならぬよう、注意するべきだ。
トラズ湾の深い青と、湾を囲む腕のような陸地と、そこにそびえるパナロス樺が青々としている様が、街の赤茶の瓦と白い壁の向こうに見える。それは誰でも憧れる光景と言って差し支えない。
街の名産のフォーカンの実を発酵させたブローズも絶品だ。華やかな香りと強すぎない酩酊、味わい深い果実の甘さが楽しめる。肴にはパグスの干し肉が合う。フィギのものよりやや硬いが、同じ白肉としてはよりコクのある味わいがある。
澄んだ青紫色のそれを瓶で購入し、上質なグラスを持って、街の高台にあるユドマス公園へ行き、ゆっくりとベンチに座って日暮れを待つ。ユドマス公園はトラズ湾を望むのに最高の場所だ。西向きの高台から、黄金にも似た輝きが見えてくる。そのまま沈む夕日が、まるで美しい濃紺のベッドに隠れる様を見送る。それこそが洗練されたトラズ観光の真髄だ。
「なるほどねぇ」
と、キマンはその細い八本の指にグラスを持って、海と呼ばれる大きな水の塊に、太陽と呼ばれる恒星が「沈んでいく」ように見える光景を見ていた。実際はテラフォーミングされたリリカトル星が公転し、恒星の見え方が変わっているだけなのだが、なかなかどうして、群青の空とオレンジ色の光の対比が美しい。
「地球人やテラズ向けの旅行誌だったけど、馬鹿にできんね」
眩い光に採光器官の開きを窄めた。キマン達コテモタリオは、菜食器官が似ている地球人やそれに由来するルーツを持つテラズと深い交友関係がある。
コテモタリオは元々住んでいたコテモタル星が貧しい星だったために、エネルギーの効率接種に特化してきた歴史を持っていた。代わりに金属算出が多く、比較的早い段階で金属の製品化技術を得て、また最も早く宇宙進出を果たした側面もあった。コテモタリオはその先で、「味わい」というものを初めて知ったのだ。そしてそれが、何も味覚によるものだけではないと分かり、コテモタリオの宇宙旅行熱が凄まじい勢いで加速した。
特に人気が出たのは、地球人およびテラズ達の振る舞う「料理」と呼ばれるものだった。彼らは菜食器官が似ていたが、消化器官はコテモタリオに比べて貧弱で、コテモタルの食品は殆ど食べることができなかった。具体的に言えば、硬すぎて食べられず、また嚥下出来ても消化不能であったりした。お陰でコテモタルで初めて人間を手術することになったので、解剖学的にも大きな躍進があった。未だコテモタリオの間では語り草だ。
そのテラズの観光ガイド、テラフォーミング惑星編の中に、昔キマンがまだ若い個体だった頃に訪れたリリカトルがあった。キマンは今年で三回節、テラズで言えば百八十と言われるくらいの齢になる。そもそもコテモタルは光源となる恒星がずっと空にあるので、休眠境と覚醒境を行き来していた。自身らの発生について調べる学者もいたが、未だ解明されていない。しかしとにかくキマンにはテラズの生活する、自動的に光ある時間になり、自動的に光なき時間になる、公転惑星が肌にあっていた。しかし、今度の旅行誌を見るまで夕日については知らなかったのだ。
「夕日ってのは、いいもんだなぁ……」
青紫色のグラスを、ガイドの写真を真似て掲げる。そのグラスの水平線の中にも、ゆっくりと眩い恒星が沈んでいくのだった。
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4/8/2023, 9:34:53 AM