さようなら、と彼女は告げて去っていく。
昨日とはまったく違った雰囲気を纏った彼女。周りに馴染めず一人心細げに様子を伺っていたはずの彼女は、今日になって急に周囲を気にすることがなくなった。
他の皆のように個性を殺して、息をひそめているわけではない。彼女は変わらず周囲から浮いて、何かと目を引く存在だった。
「あ……」
教室で一人、本を読んでいる彼女を見て、声をかけるべきかを悩む。
――一人でいると、神様のお気に入りになってしまう。そうしたら神隠しにあって二度と戻って来られない。
学校で囁かれる噂話。先輩から後輩へと受け継がれてきた話を、生徒だけでなく教師も事あるごとに口にする。
――一人外れた行動を取っていれば、お気に入りになってしまう。
――教師の話をよく聞いていないと、神隠しにあってしまう。
繰り返される噂話を、生徒は皆信じて目立たないように生きている。けれど神様が怖いからではない。神様を理由にする大人たちが怖いのだ。
皆口に出さないだけで、本当を知っている。
お気に入りとは、目を付けられること。神様ではなく大人に選ばれた生徒が誰も近寄らない神社だった場所に連れて行かれた後、どこに行くのかもすべて知っている。
知らないのは、きっと彼女だけ。伝えなければいけないと思いながらも、誰も彼女に教えることができない。
彼女が転校してきた時からずっと、大人たちが見ている。授業中でも休み時間でも、彼女がこの学校にいる限り誰かに見られ続けている。
教師も、用務員も、他の生徒の保護者でさえも、彼女を見て何かを考えている。
教えても意味がない。そうクラス委員の生徒が言った。
もう手遅れだ。部活の先輩が慰めてくれた。
自分もそう思う。思うからこそ、彼女と関わることで自分までお気に入りになるかもしれないのが怖い。その恐怖が罪悪感を覆い隠して、彼女を見捨てようとしている。
仕方がないこと。そう何度も自分に言い聞かせる。傷を深くしないように俯き、彼女に関わってはいけないのだと強く手を握り締めた。
「――ねぇ」
不意に声をかけられ、大きく肩が跳ねた。
顔を上げる。いつの間にか目の前に彼女が立ってこちらを真っすぐに見ていた。
「もう帰りたいから、通してくれるかな」
言われて教室のドアの前に佇んでいたことに気づいた。慌てて脇に避け、小さくごめんと謝罪する。
それには何も答えずに彼女が通り過ぎていく。
いつか連れていかれてしまう彼女。ただ転校してきただけでお気に入りになってしまった、友達になりたかったクラスメイト。
「あの……!」
沸き上がる後悔が、咄嗟に彼女を引き留めていた。
「あのねっ。お気に入りって本当は……」
「言わなくていいよ。分かってるから」
感情のままに告げようとした言葉を彼女は止める。こちらに視線を向けることなく、淡々と必要ないと呟いた。
「それって……」
「さようなら」
そう言って彼女は教室を出ていく。呆然と彼女の姿を見送り、しばらくして我に返った。
彼女を追って廊下に顔を出せば、階段の前で担任が彼女に何かを話しているのが見えた。
そのまま二人で階段を下りていってしまう。何を話しているのかは聞こえなかったが、きっとお気に入りになって連れていかれてしまったのだろう。
きゅっと唇を噛み締める。結局何もできなかったことに、今も見ていることしかできないことに、苦しさと痛みを感じた。
彼女にはもう、明日は来ない。彼女が言ったさようならの言葉が、頭の中でいつまでも響いている。
彼女は来ない明日を思って今日に別れを告げたのだろうか。
「ごめんなさい」
いない彼女に向けて、小さく謝罪の言葉を口にする。申し訳ない気持ちがありながらも、他の生徒たちに紛れるようにして足早に下校した。
次の日。
やはり彼女は学校に来なかった。
誰も座っていない席を一瞥して、目を伏せる。午後までには机は片付けられ、お気に入りになった彼女のことは最初からいなかったように扱われるのだろう。
チャイムが鳴る。担任はどんな顔をして、教室に入ってくるのだろうか。
「――あれ?」
けれどいくら待っても担任が教室に入ってくる様子はない。
ざわざわと控えめながらも、困惑の声があちらこちらで上がる。互いに目配せして、担任を呼びに行くべきかを迷っている。
そうして結局誰も動けず、数分が過ぎた頃だった。
「突然ですが、担任の先生が不在のため、一時限目は自習になります」
入ってきた副担任が、それだけを告げて再び教室を出て行ってしまった。
ざわめきが大きくなる。自習になることも、担任がいないことも初めてのことで、皆少なからず混乱していた。
「ねぇ」
隣の席の子が、顔を寄せて囁いた。
「昨日、転校生がお気に入りになって担任に連れていかれたんでしょう?」
思わず息を呑んだ。彼女が担任と一緒にどこかに行く姿は下校時間と重なって、何人もの生徒が見ていたらしい。
「担任だけじゃなくて、校長も一緒にあそこに向かったのを見たぜ」
後ろの席の男子が声を抑えながらも告げる。
「それと関係あるのかな。校長先生までいなくなってたら、この学校はどうなっちゃうんだろう」
きっと変わらない。誰も口にしなかったが、誰もが思っているはずだ。
けれど、と、昨日の彼女の姿を思い浮かべる。
知っていると言っていた。知っていて、怯えるでもなく担任と話していた彼女。外から来た、自分たちとは違う存在。
最後の言葉が頭の中に響く。
今日にさよなら。個性を殺し、怯え息を潜めるだけだった今日までの日々にさよなら。
こうであればいい。都合の良いさようならの意味を想像し、どうかと心の底で願った。
結局、一時限目が終わった後も授業はなく、四時限目が始まる前に生徒は皆下校させられた。
その日を境に、全てが変わった。
担任と、校長は戻ることはなく、大人たちは誰もがお気に入りになることを怖れて息を潜めて過ごしている。
反対に自分たち生徒は自由に友達と遊び、個性を殺すことなく学校生活を楽しんでいる。
彼女の姿を見た人はいない。
その代わりに、二匹の白猫と黒猫が互いにじゃれ合い遊んでいる姿を、学校でよく見かけるようになった。
「ありがとう」
校庭の真ん中で日向ぼっこを楽しむ猫たちに囁く。。
何故そんなことを言ったのかは分からない。けれど答えるように揺れる白と黒の尾に、小さく笑いながらもう一度ありがとうと呟いた。
20260218 『今日にさよなら』
2/19/2026, 3:35:56 PM