中宮雷火

Open App

【クロス・テンポラリー】

俺が、二人いた。
ある日、重たいドアを開けて家に帰ると、そこに「俺」がいた。
「よっ、おかえり」
「俺」はいつものことのように、手を軽く挙げて俺に挨拶をした。
こんな奴いたっけ、いや、いないよな、何者だ?、不審者か?
不安と困惑と恐怖が、思考回路を駆け抜けていく。
「誰だ。」
俺は低く鋭い声で「俺」を追い詰めた。
「何だよ、俺達兄弟じゃないか。何でそんなに責めるんだよ」
「俺」は変なことを口走っている。
「兄弟?俺に兄弟なんかいないぞ。お前は誰だ!」
「嫌だなあ、兄さん」
「俺」はゆっくりと口を開いた。
「俺達、双子じゃないか」

双子。
この世界では、どうやら俺には双子の弟がいるらしい。
今朝までこんな奴は存在しなかったし、そもそも俺は一人っ子のはずだ。
それなのに、いきなり双子の弟が現れて、俺は双子の兄になっていた。
どうしたことか。
「どうしたんだよ、本当に」
「俺」が顔を覗き込んでくる。
恐らく、「俺」は元から「双子の兄がいる世界」を生きていたのだろう。
きっと、俺が異世界に飛んでしまったということなのだろう。
「俺は、異世界からやって来たのか?」
「は?」
「俺」が本当に心配そうな目をしている。
「え、と、とりあえず水飲む?」
「俺」が水をくんできてくれたが、俺の喉にその水は全く通らなかった。
「ここは異世界なのか?お前には元から双子の兄がいたのか?」
「兄さん、本当に大丈夫?
記憶喪失になってるんじゃないの?」
記憶喪失、か。
もちろん、それもあり得る。
しかし、記憶喪失のトリガー(例えば、頭を強く打ったり、変な薬を飲まされたり、など)に、思い当たる節が無い。
それとも、トリガーすらも忘れてしまったのだろうか。
「俺は、何者だ?」
その日の夜は、全く寝付けなかった。

翌日。
目の下に青紫のクマが出来てしまった。
大きなあくびをしながら自室を出ると、「俺」がいた。
夢であってくれ、と祈りながら自分の頬をつねってみるが、痛い。
現実か。
「本当に大丈夫?仕事のストレス溜まってるんじゃないの?」
「俺」は相変わらず、俺を心配してくれている。
「大丈夫。早く準備しなくちゃ」
俺は目を逸らした。

双子の弟の存在は非常に異質だが、通勤中の暑苦しさと会社の息苦しさはいつも通りみたいだ。
いつもの残業をこなし、帰路についたのは23時だった。
「あ、おかえりー」
「俺」が出迎えてくれた。
その手は、赤や青に黄色、紫、緑、オレンジなど、様々な色に染まっていた。
「え、その手……」
一体何があったんだ、という困惑をよそに、「俺」は無邪気に笑った。
「今日は手を汚しちゃった。
最初は筆で描いていたんだけど、何だか納得いかなくて。
いっそのこと手で描いちゃえ!って思ってさ」
はははっ、と「俺」が笑っている。
「作品、見てみてよ。良い感じに仕上がったはずだから」
そう言って、「俺」が扉を開いた。
部屋の中を覗き込んでみると、そこには一枚の絵画があった。
赤、青、黄色。紫、緑、オレンジ。茶色。所々に白。
色が交じり合って、ジャングルが出来ていた。
「何だ、これ……」
「作品名、『熱帯の緑部屋』にしようと思ってる。
ジャングルみたいだな、って思ってさ」
触れれば、すぐに世界が広がりそうな絵だった。
それはまるで写真のように、されど手の届かない理想郷のようであった。
「どうかな、やっぱり駄目かな」
「いや、いや、そんな、全然良い。
びっくりした。
お前、絵で食っていけるよ。
画家になれよ」
こんなに人を興奮させる絵が、こんなに胸を高鳴らせる絵が、この小さな世界に留まっているのは勿体ない。
本気でそう思った。
しかし、「俺」は薄く笑ってこう言った。
「そっか、ありがと。
次の個展で出そうと思ってるけど、売れるかどうかは分かんないや。
きっと、人によって好き嫌いの分かれる絵だと思うから」
少し悲しそうに俯いた後、「俺は早く寝るよ。おやすみ」と言い、部屋を出ていった。

どうやら、この家(といっても、アパートの一室だが)には「俺」のアトリエがあるらしい。
そして、このアトリエで「俺」は絵を描いている。
そう、「俺」は画家なのだ。
しかも、絵で食っていけるだけの実力がある画家だ。
俺が会社でのたうち回っている間、「俺」はアトリエで試行錯誤をしながら絵を描いているのだ。
「兄さん、俺の職業まで忘れちゃったの?」
目の前に座る「俺」が笑いながらコーヒーを飲んでいる。
俺達が今まさに使っているマグカップも、双子の弟による作品だ。
「すごいなあ。双子の弟が画家だなんて。いつかピカソやモネと並ぶ有名画家になるんじゃないのか」
「そうなれたらいいんだけどね」
俺は心の底から「俺」のファンになっていたが、「俺」は自己評価が低いのか、いくら俺が褒めても喜ぶことが無い。
もう少し自己評価が高くてもいいのに、と思うこともしばしばある。

一方、双子の兄として1ヶ月過ごし、俺自身に心境の変化があった。
「俺」の輝かしい姿を見て、次第に劣等感が胸を埋め尽くすようになった。
自分は何故会社で働いているんだ?
何故やりたくもない仕事をやっているんだ?
自問自答の日々に、終わりがやって来る気配は全く無い。
俺と「俺」。
双子の兄と双子の弟。
下っ端の会社員と最強の画家。
凡人と天才。
この対比構造が浮き彫りになるにつれて、俺の自己肯定感が下がっていくのを感じた。
朝の満員電車も、夜の誰もいないオフィスも、俺は望んでいないはずなのに。
それなのに、俺は自らこの道を選んだのだ。
いや、この道が既に敷かれてあったのだ。
やりたくもないことを自ら進んで行っているというジレンマは、メビウスの輪のように解けることが無い。
次第に俺は、「何故自分がこんな人生を送っているのか」について考え始めていた。

「俺」との共同生活が2カ月を過ぎた頃、俺はある夢を見た。
「おばあちゃん、クレヨン買って」
小さい子供がクレヨンをねだっている夢だ。
子供はクレヨンを買ってもらい、自由にお絵かきをした。
紙に留まらず、壁にも床にも落書きをした。
すると、母親がやって来て、クレヨンを強引に取り上げた。
クレヨンを没収された子供が泣き叫んでいるところに、今度は父親が紙と鉛筆を渡した。
絶え間ない数字と、公式の数々。
子供は、泣きながら宿題に取り組む。
非常に気持ちが悪く、後味の悪い夢だった。
そして、デジャヴを感じる夢でもあった。
どこかで見たことのある光景、どこだっけ、どこで見たことあるんだ?
そして遂に、デジャヴの正体がわかったのだ。
この子供は俺自身だ、と。

幼少期の俺は、絵を描くのが好きだった。
誕生日に祖母から貰ったクレヨンを気に入り、毎日のように絵を描いていた。
床や壁に落書きをしては、両親にこっぴどく叱られるような生活を送っていた。
しかし、成長するにつれて、勉強のほうが大事になっていった。
「勉強しなさい」と親に叱られ、渋々勉強する学生時代を過ごした。
そのまま大学に進み、よく分からないまま就活を乗り切り、今ではこんな生活を送っている。
そうだ、俺は小さい頃「画家」になりたかったんだ。

その日から俺は、仕事が終わった後に絵を描くようになった。
30分しか時間が取れない中で、俺は無我夢中でペンを走らせた。
最初はほんのちょっとした趣味に過ぎなかった。
しかしある時、
「兄さん、絵上手いじゃん」
と褒められたことで、ほんのちょっとした自信が生まれた。
俺は画家になれるんじゃないか?と思うこともあったが、そんな簡単に夢を叶えられるほど現実が甘くないとも知っていた。
それでも良かった。
単純に、絵を描くのが好きだと再認識した。
幼少期の頃の俺に戻ったみたいな気分だった。

双子の弟が出来てから3ヶ月が経ったある日。
今日はどんな絵を描こうか、と考えている時に、ふとある考えが浮かんだ。
もしかして、双子の弟は「画家になった世界線の俺」なのでは無いか?
夢を叶えなかった俺と、夢を叶えて画家になった俺の世界が交わって、一つになったのではないか?
もしかしたら、玄関を開けると弟はいないのではないのか?
いや、そんなまさか。
そんなこと、あるわけない。
そう思って、そう祈って玄関を開いた。
「ただいまー」
部屋は、がらんとしていた。
ただただ、俺の落書きと無音だけがあった。

7/13/2025, 10:49:13 AM