好きな人だけ読んでって

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願いが1つ叶うならば。
そんなことを口走る程の想いは何一つ無いはずだ。
だけどふとした瞬間、脳裏をよぎるのはただ一つこの言葉で。


だから彼のこと、多くは語らないでおこうと思う。

あまりに朧げな記憶…いや、視界。
淡いフィルターがかかったような世界が広がっていた。
どこからか垂れ下がる目元の位置に広がる藤の花はどこか白けていた。藤を分けて、焦る気持ちに押されて前へ進むと、その先に彼がいた。その人の顔を見ようとすればするほど見えない。ピントが合わなくて、ぼやぁっとしている。
ただ彼のかき分けた藤そのものの、長く垂れ下がる髪をよく覚えている。
今でもあれが夢だったのか、それとも違うのか。ハッキリしない。
だってあの時見たあの人は、今僕の目の前にいるから。

「ねぇ、ただの嘘をつけばそれは嘘吐きだけど、人々を魅了するような嘘なら、小説家になれちゃうんだよ」

落ち着いた低めの声は、酷く穏やかで一定の何所を彷徨い続ける。いつかに聴いていたオルゴールみたいだ。

大抵はこっちの反応なんて気にしちゃいない。独り言かのように遠目をして話す彼だけど、それは確かに俺に向けられている。

「僕がついた嘘」

あ、俺の眼を見た。

「君だけはずっとずっと、知らないふりしてね.」

まただ。

「きっとだよ。」

“きっとだよ。”約束だよという意味だと、解釈している。
こういう独特な言い回しも今となっては慣れたもので、それらは耳を優しく撫でる。

嘘…何のことなのか分からない。
俺は知らない、
彼のついた嘘なんて。

そう言っても、
『いいや、君は知っているよ』
そう言われる。

深い黄緑が太陽のもとで涼やかに微笑む森の中、こぢんまりとした木造りの小屋がある。中はたくさんの花が溢れている。奥には白いシーツのベット。両開きの窓から吹き抜ける森の風の匂いが、さりげなく肌を撫でる。ベット上の彼が靡かせるいつかに見た藤が、何かの柔軟剤によく似た甘くて柔らかい、自然の布団。そんな匂いを纏わせている。
そんな小屋に足を踏み入れると、どこか身体が上も下もないぬるま湯に浮遊しているような感覚に陥って、生温かくて鈍い。
儚い夢をずっと見せさせられている。

「ところで君はさ、僕が何で床に臥せっているのか知ってる?」

出会った時から…いや、どうだったかな。いつからかハッキリと記憶になっているものから振り返ってみれば、記憶の中の彼は常に蒼白い顔と細い手脚。咳なんかを時々して、いつも調子が悪そうで、大体ベットで過ごしている。

「知らない」

「ふふ、おかしいね。毎週末お見舞いに来てるっていうのに」

ふわふわと漂ってしまう向けられた言葉は見当も付かないもので、俺のどこにも留まらない。
考えることも無い
考えたくても、考えられない
少し頭がくらつく甘い匂いはずっと鼻腔でゆらゆら踊っている。いつまでも。

「僕が死んだら、君に夢の目覚めを教えてあげられる」

「気になる?」

鼻腔をツンと刺す。その芳香を目で辿る。

「…葉っぱ? 花じゃない…」

「ヒサカキっていう木だよ。よく見てご覧よ、花は咲いているよ」

「あ…ほんとだ」

小さい花が、ところどころ咲いている。蕾がたくさん、木についている。

「俺、そろそろ行きます」

「梟に尋ねにでも行くのかな?」

「自分の家に帰るんだよ」

「わぁ、君の家か。どんな家なんだろう」

「今度招待するから、来てよ」

「やだなぁ。………」

「…死なないでね」

「…参ったな、君にそんなことを簡単に言われちゃうなんて」

「また来週 。」

毎度どこか掻きむしりたくなるような淋しさが滲むこの帰りは、喉から搾り出した“また来週”。どこか掠れてしまって、我ながら不器用な微笑みを残して、軋む木のドアを閉じた。
閉まるドアの狭まる隙間から見た彼は、もうこちらを見ていなかった。

3/11/2025, 7:22:39 AM