『降り止まない雨』
「ありがとうございます。魔術師」
「いいえ、困った時はお互い様ですよ」
濡れた髪をタオルで拭いながら、
レザーソファに腰を下ろす悪役令嬢。
魔術師に借りたシルクのシャツから
爽やかなミントの香りがする。
ここは崖の上に聳え立つ城。
魔術師が所有する根城の一つだ。
迎えの時間になってもやって来ない馬車を
待っていると突然、大粒の雨が降り出した。
そこへたまたま通りかかった魔術師が
救いの手を差し伸べてくれたのだ。
「どうぞ」
とろりとした琥珀色の液体が入った
マグカップを差し出す魔術師。
「はちみつ酒です。リンゴとはちみつに
シナモンとクローブ、オレンジの皮に
レモン汁、水、赤ワインを煮て作りました」
フーフーと冷ましながら口をつければ、
甘くて優しい味が広がり、
身体の芯からポカポカと温まるの感じた。
「おいしいですわ」
「それはよかった」
薄暗い部屋の中では、ガスランプの炎が
あたりにほのかな赤い光を投げかけ、
陰鬱な雨が窓を叩く音と
風の唸り声が聞こえてくる。
「以前もこんな事ありましたよね」
「いぜん?」
「はい。子供の頃、森で遊んでいた時に急に雨が
降り出して洞窟で雨宿りしたこと、覚えてますか」
「……ええ、そんな事もありましたわね。
懐かしいですわ」
思い出ばなしに花を咲かせる二人。
すると魔術師が悪役令嬢の隣に座り、
ダンスに誘うかの如く彼女の手をとった。
「な、なんですの」
夜闇に包まれる前の空を思わせる
紫色の瞳が彼女の姿を捉える。
「泊まっていきませんか?」
「ここにですか?」
「はい」
悪役令嬢は顎に手を当て考え込む。
ふと窓の外を見遣ると、にわか雨はすっかり止み、
空は淡い黄金色に染まっていた。
雲の切れ間から天使の梯子を降ろす
美しい光景はまるで宗教画のようだ。
「今日はもうおいとましますわ。
はちみつ酒、ご馳走様でした。
シャツはまた今度洗って返しますわね」
悪役令嬢は立ち上がり、
魔術師にぺこりと頭を下げる。
突如、猛烈な眠気と脱力感が彼女を襲い、
がくりと膝から崩れ落ちた。
身体に力が入らない。
「本当に危機感のない方ですね、メア」
朦朧とする意識の中で、
魔術師の笑い声だけがはっきりと聞こえる。
「あなた……飲み物に、何か混ぜて」
毒を盛るだなんて、悪役のする事ですわ。
悪態の一つでもついてやりたいところだが
彼女の意識はそこでプツリと途切れた。
5/25/2024, 6:15:04 PM