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3月6日のお題【たまには】に加えて
友人たちから【言葉】を募集して
お題小説とさせていただきました。
最後にまとめて紹介しておきます⭐︎



兄は 初めて見るイルカに 見惚れていた。
分厚いガラスの存在を忘れて
無意識に伸ばした手を 引っ込めた。
子供らしいところを私に
見せたく無かったのかもしれない。
けれどその後もしばらく
ぼーっと見つめているものだから
早く行こうよ、と強く 裾をひいてしまった。

帰り際のお土産コーナーで
その水族館には 展示されてもいない
アザラシのぬいぐるみを
私は欲しがった。
少し膨れて、ぎゅっと抱いて離さなかった。

母はいつもの駄々にうんざりしていたけれど
そんな時も兄は
自分は何もいらないから
かやこにアザラシを買ってあげて欲しい
と頼んでくれた。

蝋燭に火が灯り
線香の香りが脳に届いた時
実感した。

もう兄はここには いない。

泣き崩れる母を
支えることもなく
ただ揺れる蝋燭の火を見ていた。
輪郭も不鮮明な火に
心を縛り付けられていた。

行かないで。
あの時の兄のように手を伸ばしていた。
もしそれで兄が戻ってきてくれるのなら。

おやつは必ず大きい方をくれた。
母のお気に入りのお皿を割ってしまった時
自分がぶつかったせい、と嘘をついてくれた。
皿の破片で指を切っても
痛くないと、また嘘をついてくれた。
夏休みの宿題の自由研究は
いつも兄との合作だった。
あがり症の私が心配だと
就活の面談練習も 毎晩付き合ってくれた。
幼いうちに父を亡くしたのは
兄も同じだったのに
父親以上の存在になろうとしていたのか
小さな悩み事にも「一緒に考えよう」と
いつも寄り添ってくれた。

私は知っていた。
兄があの日の水族館で
イルカのぬいぐるみを見ていたこと。
愛しそうに少しだけ、撫でていたこと。

わたしのためだけでなく
誰かのために 生きられる人だったのだ。
運動神経も良く、人に頼られる兄が
消防士になったことは
わたしにとっても誇りだった。

兄を奪った同じ火で
兄を送らねばならない。
献灯は 故人を無事に家へ導く 願いの光。
その道標が 今も憎くて仕方がない。

暗い田舎を離れ、早5年。
実家から持ち出したおもちゃ箱を開ける。

兄と集めていたBB弾
縁日の射的で取ってもらった
グリコの空箱と おまけの指輪。
銀のエンゼルはまだ あと1枚足りていない。
そして、アザラシのぬいぐるみ。
シロの脇の下には手術の跡がある。
ブンブンと振り回してしまったせいで
一度はらわたが飛び出してしまった。

今日は兄の命日。
蝋燭に火を灯し線香に移す。
白檀の独特の香りが
また、脳にまで届く。

「たまには、帰ってらっしゃい……」
電話口の母の声は
どんどんと小さくなっていった。
ただ私の耳が受け付けなかった
だけかもしれないが。
母まだあの日に
炎に 囚われている。

薄れゆく記憶の中に生きる
兄はいつも笑っている。

自分のためだけにしょげるな
人と歩むために前を向けと言っていた。

母はまだ悲しみの中。
私はその残像を振り払うように
手を伸ばし
蝋燭の火を消した。
煙が溶けてゆく。
結露した窓と重い雲。

淡雪は舞う、溶けるために。
気付かぬうちに春は来ていた。




お題の【言葉】
・死
・献灯
・イルカ
・おもちゃ箱
・淡雪

淡雪は
春先に降る消えやすい雪という意味だそうです。

3/6/2024, 9:36:03 AM