37.5℃。
私は腋から取り出した体温計の表示を見て溜息を吐いた。
昼休憩、病院の売店でコッソリ買った体温計で熱を測ってみたら、案の定微熱。
頭重感と倦怠感はあるけれど、このくらいなら仕事へのアドレナリンで乗り切れる。多分だけど。
今日は午後から日課の検温に加え、検査出し、オペ出しと受け入れ。合間には看護計画や退院サマリーの入力も進めたい。
早退してチームの看護師に迷惑をかけるか、就業終了まであと4時間、粘るか。
残業せずに帰宅できる仕事量ではないけど、でも、流石に今日は定時で帰ろう。帰らさせてもらう。
腹の決まった私は立ち上がった。
「よし、働こう」
「37.5℃。微熱っすね」
「……っ!」
背後から急に声をかけられて、心臓が一瞬止まるかってほどに驚く。
此処は会議室や事務室が並ぶ職員専用フロア。職員でさえも滅多に通らない廊下の隅でコソコソしていたのに。
あたしが驚きのあまり落とした体温計を、顔馴染みのレントゲン技師さんが拾ってくれる。
「ありがとうございます」と告げて返してもらおうと手を差し出したけれど、渡してはもらえなかった。
「看護師さんって、微熱は熱じゃないと思ってますよね」
「そんなこと…」
「ありますよね。普通の人は、37.5℃でこれから4時間以上も仕事しようなんて思わないですよ」
誤魔化すように笑うしかない。
先日、そういったことの積み重ねで、私は彼氏と別れたばかりだ。
だって、日々解熱剤を使わなければならないような高熱患者を看護してるのに、今更たかだか微熱で心配してくれない、冷たいとか機嫌がすこぶる悪くなられてもねえ?
「微熱って本当は辛いと思うんですよ。普段とは違う身体の状態なんですから。看護師さんに言うのも烏滸がましいですけど」
ベンチへ座るように促されて、確かに座っている方が楽だから大人しく腰をかける。技師さんも隣に腰掛けた。
このレントゲン技師さんとこんなに話をしたのは初めてだった。
普段は患者さんのレントゲン室への送迎時に挨拶をするだけ。
だけど。
私を心配してくれているのはわかる。
ぶっきらぼうな伝え方でも、どういうわけかわかる。
「…ありがとうございます」
「帰ります?」
「はい」
素直に頷く。
明日に回せる仕事は看護計画と退院サマリーくらいしかなくて、チームの皆んなには迷惑をかけてしまうけれど。
技師さんは体温計を私が座るベンチに置いた。
直接渡してもらえなかったことにわけが分からず訝しがりながらも手を伸ばす。
「あ、ちょっと待って。写真撮りたいっす」
「写真?」
ますますワケが分からず混乱した私を放置したまま、技師さんはスマホで37.5℃と表示された体温計の写真を撮った。
「俺もコレで帰ろうと思って」
「はぁ?」
仕事のサボりの口実に使うの!?
私のムカついた顔を見て、技師さんは慌てて首を横に振った。
「違います、違います。青木さん、電車通勤でしょ?
俺、車だから近くまで送って行ければと思ったけど、でも、考えたらキモイですよね。いつも挨拶程度だったのに」
技師さんは焦って慌てて言い募る。
なんかこの人って多分素直で良い人だ。
技師さんの胸ポケットに取り付けられた名札に目を凝らす。
木村さん。
「ですね。でも、駅まで乗せて行ってもらえると助かっちゃうかも。木村さんの昼休憩を潰しちゃうのは申し訳ないですけど」
何だろう。
少しだけなら頼って良いと思ってしまったのだ。
その方が、木村さんに心配をかけなくて良いのかなあと思わされてしまったのだ。
普段なら、身内や友人以外こんなこと頼まないことなのに。
「そんな、全然良いです!青木さんと一緒にいれ…っと、何でもないです」
木村さんは慌てて私から目を逸らして僅かに横を向いた。
でも横顔のせいでマスクで覆いきれていない頬や耳元がよく見える。その頬や耳元が紅く染まっているような気がする。見間違いでなければ。
「木村さん?」
「あの、青木さん。早く職場に伝えた方が良いと思います、」
「…ですね」
「俺、車を地下駐車場の方に回しておきます。その方が一目に付かないだろうし」
「わかりました。あの、LINE繋げても大丈夫ですか?ちょっと時間かかるようなら連絡取りたいですし」
「あっ、そうですよね。すみません」
「いえ、私こそ昼休憩潰してしまいそうで、すみません。ほんとに大丈夫ですか?」
「俺の心配はいらないっすよ」
私は職場へ向かうため立ち上がる。
多分、立ちくらみを心配してくれたのだろう。木村さんは何かあったら私を支えるつもりで両手を軽く伸ばしてくれていた。
「行ってきますね」
「はい。待ってます」
たかだか微熱と思っていたけど、人に優しくされると嬉しい。
微熱をアピールする気にはなれないけれど、でも、こんな優しさは身に染みる。
車に乗ったら、窓を開けて換気してもらおう。
この微熱の原因が何なのかわかりかねてるけど、木村さんには絶対に移さないように。
私は木村さんのことを考えながら病棟へ向かった。
微熱
11/27/2024, 12:13:08 AM