このお話は連続小説『過ぎ去った未来』の第三話です。前話までをまだお読みでない方はそちらからどうぞ。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――チュウ、という鼠の小さな鳴き声が坂部の意識を呼び戻した。
目を開けると、そこは四畳半のボロアパートだった。カビ臭い畳、干しっぱなしの洗濯物、散乱したカップ麺の容器。記憶に残る部屋より数倍も汚く強烈な匂いを放っていた。
「こりゃあ酷い――」
坂部は思わず声を漏らす。ふと落とした視線に、血色が良くシワとは無縁の、キメ細かい肌が映りこんだ。坂部は思わず立ち上がり、畳の上に転がるゴミの山をひょいひょいと乗り越えながら洗面所に向かう。体の軽さに『若さ』を実感する。
――ああ、これだ。これが若さというやつだったか。
意気揚々と洗面所に立った坂部が目にしたのは、まぎれもない二十歳の坂部だった。 しかし、その姿はあまりにもみすぼらしい。ボサボサの髪に、三日は剃っていないだろうと思われる不精髭、目の下には寝不足でできた隈がどんよりと赤黒い染みを作っている。鏡自体も薄汚れていたが、それは言い訳にもならなかった。 見ようによっては、清潔感のある五十歳の坂部の方が、まだ若さという言葉と釣り合っているようにも思える。
坂部は深く溜め息をつき、蛇口をひねった。流れ出る冷たい水で、その眠そうな顔をばしゃばしゃとはたく。幾分かシャキリとした顔に、心も少し晴れた。 軽くシャワーを浴びて、洋服箪笥から辛うじて着られそうなTシャツとチノパンを取り出して着替えを済ませる。
玄関を開けて外に出ると、まばゆい光とともに、部屋の中以上に懐かしい光景が広がっていた。
――ここからもう一度青春が始まるんだ。
坂部は青い空に胸を預けるように両腕を広げながら、鼻から目いっぱい空気を吸い込んだ。肺に溜まっていく空気も心なしか軽く、澄んだ心地がした。思わず浮かんだ笑みに呼び起されるように、ぐぅと腹の虫が鳴いた。
「まずは腹ごしらえだな」
そこで坂部は、大学時代によく通っていた近所のラーメン屋のことを思い出した。場所を思い出そうとして思考が止まり、思わずチノパンのポケットを探る。当然、この時代にスマートフォンなる文明の利器はなく、まだ携帯電話すらも普及していない。この頃はよくもまあ、こんな不便な生活を続けていたものだと感心すら覚える。
坂部は仕方なく、朧げな記憶を頼りに道を進む。少し歩けば、辺りの景色に見慣れた家や看板が目に入ってくる。三十年の月日はとても遠い過去のように思えたが、案外記憶の奥底に眠っているだけで、ちゃんと掘り起こしてやれば、素直に顔を出すものである。
時刻は昼時とあってか、目的の店の前には四~五組の行列ができていた。最前には母親と小学生くらいの親子連れが互いに笑顔を交わし、最後尾のサラリーマンと思しきスーツの男性は待ち時間の一服をふかしていた。坂部はサラリーマンの後ろに静かに並ぶ。前方から流れてくる副流煙が肺に流れ込んで、たまらずコホコホと小さな咳が出た。サラリーマンが坂部の方をチラリと一瞥し、何だ、こちとら短い昼休憩を削って並んでいるんだ、という顔で、ふぅと煙を吐きながら再び前に向き直る。
別にタバコを吸っている人間にとやかく言うつもりはないし、路上で吸おうと知ったことはないが、煙の行方くらいには気を遣ってほしいものだ、と説教じみたことを考える。ほどなくして、この時代の当たり前を思い出して、何も言わずにただただ順番を待ち続けた。
十五分ほど並んでようやく店内に通された。暖簾をくぐった瞬間、鶏ガラのだしと甘い醤油の香りが鼻の周りをかすめていく。また、ぐぅと腹が鳴る。
注文したのは、昔ながらのシンプルな中華そばとチャーハンのセットに、餃子と鶏の唐揚げまでつけた。五十歳の坂部であれば、その後の胃もたれを気にして躊躇するような量だが、何せ今は二十歳である。何とかなるという期待というより、もはや確信しかない。
狭いカウンターに所狭しと並んだ脂肪と塩分と添加物の暴徒を、待ってましたと隙間を空けた胃の中に放り込んでいく。ずんずんと体内を通るカロリーが、すぐさまエネルギーに変わっていくような感覚。やっぱり、若さとは計り知れないパワーの塊である。
三つの皿と一つの丼はあっという間に空になり、坂部は「ふぅ」と満足げなニンニク臭の息を吐いて椅子の背にどっしりと凭れ掛かる。
「はあ、こんなに食ったのは久しぶりだ」
ふと店内のテレビで流れる懐かしい番組が目に入って、初めて、本当に戻ってきたんだなと、妙な実感と安心を覚える。
時は金なりと、坂部は重い腰を上げた。よっこいしょ、と五十歳の口癖が出る。これだけ食べて千円札一枚で事足りることに驚きながら、会計を済ませ店を出る。
腕時計はまもなく十四時になろうというあたり。 坂部は周囲の静けさに心地よさを感じていた。上司からの命令や部下からの報連相も、次のアポの段取りを考える必要もない。なんと自由なんだろう、と解放感に打ちひしがれる。
その後も、ゲーセンやパチンコで無駄に時間と金を浪費し、缶ビールを片手に公園のベンチに腰掛けて、ただぼうっと空を眺めたりした。
この時代の公園には、箱型のブランコや、地球儀のようなジャングルジムなと、今では敬遠されそうな色形の遊具がまだ残っていた。子どもは遊びの天才、というのはどうやら本当だ。各々に遊び方を発明しながら、大人では思いもつかない方法で遊具の新たな可能性を引き出しては、キャッキャと笑っている。
青く晴れ渡った空に雲がゆっくりと流れていくのが分かった。こんなふうに空を見上げたのはいつぶりだろうか。営業の合間で見上げる空は、愚痴やため息が交じったような色をしていた。
歳を重ねるごとに、知らず知らずのうちに落としてきてしまった夢や希望というものは、この青い空に雲と一緒に漂っていて、手を伸ばせばすぐに掴めそうに思えた。 坂部は、背徳心とも罪悪感とも似たような妙な心地に、モヤモヤとした胸の疼きを覚えていた。
――このままで良いわけないよな。
坂部の中に湧き上がった感情が、はたして五十歳の意識から来るものなのか、それとも二十歳の肉体の残留思念なのか、もはや今の坂部には判別がつかなかった。
『過ぎ去った未来』第四話に続く
1/26/2026, 10:19:52 AM