ミキミヤ

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【空白】

私には、空白の1年がある。それは本当に文字通りの空白で、その1年間の記憶が全くないのである。
きっかけは交通事故に遭ったことだったらしい。6月のことだった。私は事故に遭う前のちょうど1年分の記憶を無くしていた。高校3年生の一学期の半ばから、大学に入ってしばらくの記憶が空白になってしまったのだ。

怪我もそれなりに酷かったが、それは入院して治療しリハビリすれば徐々に良くなっていった。しかし、記憶の方はどうもうまく回復せず、空白のままだった。
怪我が治って退院しても、記憶は戻らず。事故から半年、私は大学を休んだ。
なにせ、私にしてみれば、知らない間に受験して知らない間に合格して知らない間に入学していた大学である。

空白の記憶の為に困ったのは、大学のことだけではなかった。もう一つ、重大な困りごとがあった。それは、恋人のことである。
どうやら、高3の時に付き合い始めて同じ大学の同じ学部に進学したらしいのだが、私は彼をどうして好きになったのかわからなかった。クラスではかなり目立たない方の人で、私とは接点なんてなかったはずなのである。それも、両親には交際のことを話していなかったらしく、お見舞いに来た彼に、両親はひどく驚いていた。ただ、彼は真面目な好青年だったため、両親はすぐに彼に絆されていた。私も、彼の良いところは分かったけれども、なぜ付き合ったのかは全く思い出せなかった。
空白を思い出せず、苦しむ私に、彼はいつも、
「無理に思い出す必要はないよ。記憶がなくたって、僕は君のそばにいるから」
と言ってくれた。

それから5年。空白を抱えたまま私は社会人になった。彼との付き合いもまだ続いている。
そんなある日、彼とデートしていた時に、高3の時のクラスメイトと偶然再会した。
彼女は、まず、彼の変わりように「えー!垢抜けたね!」と驚いていた。
そして、私が彼と付き合っていることを告げると、それ以上に驚いていた。
「え、ふたりって接点あったの?付き合ってるなんて信じられない!」
彼はその言葉に、「僕ら、秘密主義だったからね」なんておどけて返していた。
高3の思い出話は、主に彼が相手をして、私は適当に頷くことで乗り切った。

元同級生の彼女と別れて彼とふたりで歩きながら、私は思った。ずっと彼との大切な思い出を忘れているなんて寂しいな、と。
彼にもその気持ちを口に出して伝えてみたが、彼は相変わらず「無理に思い出さなくていいんだよ」と言った。

「その頃の思い出がなくたって、今僕らはそばにいて楽しい。それでいいじゃないか。僕はこうして大好きな君と一緒にいられる今が幸せだよ」

「だから、思い出さなくていいんだ。そのままの君が好きだよ。ずっと一緒にいようね」

そのときの彼の笑顔は、何故か少しこわかった。言葉以上の感情が彼の目に渦巻いている気がしたのだ。でも、次の瞬間、何も返せなかった私を心配して覗き込んでくる彼の顔はいつも通りだったから、私は安心して、頷いた。
欠けた私を許容してくれる彼は、唯一無二の存在だ。だから私はきっとこれからも、空白を抱えながら彼と歩むのだろう。その空白に、いったい何があったとしても、知らぬまま。彼が許すまま、進むのだろう。

9/14/2025, 5:34:12 AM