【溢れる気持ち】
私の自覚する愛着障害というのはとても厄介で、それこそとても説明がしづらいものである。
境界線を超えて自分のテリトリーにしてしまったものに関しては、悲しく虚しい依存をする。
それがないと呼吸ができない、わけじゃないとわかっていても自分の生命線のように離れられなくなってしまう。
手にとってから、手にしたことに気づくこともある。
ああ、また大切なものが増えてしまった。
自分でできる意識としては
「自分が思っているほど自分は必要とされていない」
「お前の代わりはいくらでもいる」
そういう所謂、言われたらきついことを自分で抑制剤のように言い聞かせる事だけだ。そうすることで過度な執着を切り離すことができる。
周りから見たら最後の最後で自信がない人、言葉の重みがない人に見えているかもしれない。
自分の耳に優しい言葉を学ぶために自己表現を始めたところもある。
だってこれは自己満足の上で自分を開示して「意外と考えているじゃん」と言ってもらえる可能性を秘めているからだ。
ここでも期待をしてしまう浅ましい人間である。
理解してもらうつもりはない、君はきっと同じ重さの想いが通じたと思っているかもしれないが、違う。
まるで、違う。
天秤が水平になるように、100:100に見えるように振舞っている。本当の姿は天秤の天板、その台座にぼたぼたとヘドロのような沼ができている。
身勝手な期待と打算的な演出が天秤の足場から水平を奪っている。これが溢れる気持ちなのであれば、誰に見せられる物でもない。
花村萬月は言った「お前のゲロだったら、きれいに舐めてやるよ」そんなバカ、どこにいるのだろうか。そう言いつつまた期待している。執着とは、未練とは、厄介なものである。
2/6/2024, 3:04:47 AM