『刹那』
夢物語を終えたこの先にはなにがあるのだろう。
幼い頃に大好きで、よく母親に読み聞かせしてもらったひとつの物語。何度も読み、もうボロボロだ。数カ所は破れてしまっている。
僕は音にならない深呼吸をし、ゆっくりと目を伏せた。
どれほど綺麗な空言でも、物語の糸はほどけ、やがて無に還る。
僕はようやく重たい体を持ち上げ、背伸びをした。
心の音が止まってしまったこの部屋はもう二度とあの時のような光になることはなく、ただ、僕自身を苛む檻となる。
部屋中に散らばった紙は全て真っ黒に塗りつぶされ、ふと目に入った時をも閉じこめる幼き頃の写真はビリビリに破かれ、もう、あの時には戻れないのだと、見せしめのように突きつけられている気がした。
ベッドから降りようとしたその瞬間、全身の倦怠感に焼けきれるような喉の痛みが走った。どうやら、身体が重かったのは心だけの問題ではなかったらしい。
だが体温計などがこの家にある訳もなく床を這うように栄養ドリンクを片手にし、ただただ無心で仕事机へと向かった。
この世で成し得たいものなど存在せず、ただ自身に残された時を1刻1刻数えている。
それがタイピング音と脳を蝕むような痛さが重なっていた。
『僕はお前を一度も母親と思ったことがない!!
もう、二度と関わらないでくれ!!!』
ふと思い出した言葉に、僕はため息を着いた。
母親と最期に口を交わした言葉だ。
太宰治の人間失格を思い出す。
友人に借り、初めて読んだ時は意味がわからなかった。これのどこが失格なんだ。と。なんと人間らしい行為だ!と言ったのを覚えている。
それを友人に言えば大笑いされた記憶がある。
人間はどうやら、自分自身を卑下する癖があるようだ。
当時の僕には到底理解ができなかった。
まさか、自分までもが人間失格と言われるような言動をするなんて、思いもしなかっただろうな。
『永遠』という言葉に惹かれていた当時。
何百年前に神童と呼ばれ、未完のレクイエムを残した天才音楽家。
交響曲第十番。断片だけを残し、この世を去った楽聖。
音楽には終わりがない。
人がいる限り永遠に紡がれる。
僕がそれに魅了されるのにはそう時間はかからなかった。
だが、残念なことに僕には才能がなかった。
そして、音楽と言うものに出会い、僕は、僕の人生を破滅させたと言っても過言では無い。
絶対音感がない、手が小さい、声が小さい、そういった物理的な問題では無い。
僕には、明らかな熱意が足りていなかった。
耳はそれなりによかった。
それこそ、ピアノの音が僅かにでもズレていれば僕は音楽そのものに興味をなくし、ピアノ椅子から離れた。
母親はそんな僕に気を使って年に3回以上調律師を家に招いた。
その度に僕は目を輝かせ、意気揚々とピアノを弾いていた記憶がある。
だが、僕は、明らかに努力する才能がなかった。
それに対して音楽への執着は醜かった。
「くそ……頭いてぇ……」
酷くなる頭痛に頭を掻きむしり、2本目の栄養ドリンクを放り投げた。
栄養ドリンクは万能薬と洗脳させた脳はとうに現実に戻っていたらしい。
今までは飲めば多少楽になっていた頭痛も、全く治る気配がない。
ただ意味もなくその瓶を睨みつけ、僕はパソコンの電源を落とした。
流石にちゃんと固形のものを食べようとデリバリーを頼もうと考えたは良いものの、ふらふらと立ち上がったその瞬間世界が暗転した。
頭を強打し、視界がぼやけ、全身の力が溶けていくかのような感覚に襲われた。
その瞬間僕は理解した。
僕は、ようやくこの世を去れるのだ。
駆け巡る走馬灯に聞こえてくる愚者の声。
もう、僕は、何もしたくない。
最後に脳裏に映ったのは、母親の作ったハンバーグだった。
4/29/2026, 4:50:39 AM