ペルセポネ
秋が進み木々たちは黄葉を身に着け始める。秋の葉を噛む想像をすると甘酸っぱい味が口の中に広がった。
あのザクロの味を思い出した。そしてあの美しい髪をも思い出してしまった。
ザクロ四粒分の月日、縛られたままだ。
連日同じ夢を見ている。
手を取り合いながら二人、海中に浮かんでいる。ここは薄暗く何もない。弾けて消えゆくあぶくが私たちを包んでいるだけ。
何もない、しかし全てがここにあった。
ここが私の全てだと思った。
突然あなたに強く腕を引かれ、向かい合う。とん、と軽く肩を押され体が沈む。沈んだ際に生まれた微かな風が私の黒く長い髪をふわりと押し上げ、あぶくが私たちを撫で包んだ。
光が降り注いでいる。あなたの長く美しいブロンドの髪は揺らぎ広がってゆく。降り注ぐ光と長い髪が光輪となり、微笑む様は女神の如く、ステンドグラスの前に佇む石膏と瓜二つ。あなたの瞳はどこまでも慈しみに溢れ透き通っていた。
熱心に祈りを捧げる誰かの気持ちを今しがた理解した。
瞠目する。 何に?
辺りを漂う己の髪が徐々に上昇してゆく。掴もうと手を伸ばしてみるも髪は指先をすり抜け揺れ笑う。引き千切ってしまおうと漸く掴んだ時、手の甲にそっとあなたの手が重ねられた。あなたは私の髪を手ごと掬い上げながら、光を含んだ美しいその目を細め、囁いた。私の名を。
見開く。息が苦しい。
海中ではなくベッドにいて、髪は枕に広がっていた。幸福の中を漂い、嘯くあなたを描き出し、飽きもせず底冷えするような朝をまた迎えた。
まばたきをしてぼと、と枕に涙が染みる。
彼女は、そんなことしない、彼女は、あんなこと言わない、彼女は、ちがう。
都合の悪い夢を見ている。
手洗い場の鏡に映る己の顔が酷く醜い。血の気が引いた青白い頬、震えるかさついた唇に、どこまでも黒い瞳。
――――あなたの髪、すごく綺麗。艶があって、透き通っていて、さらさら、揺れて……とても素敵ね。……そうだったの、生まれつきなのね。ああ、よく見たらあなたの瞳、綺麗なブラウン……美しいわ、とっても。
ああ、嫌だ、昔あなたに掛けた言葉を思い出してしまった。何が綺麗だ、何が美しいだ、何が。
勢い良く水を出し手のひらに溜めては顔に押し付ける。果てに溺れ死にたくなった。冷水で顔を洗っても気分は晴れない。髪を纏めることもせず水を浴びたせいで顔に、首に、纏わり付いた髪の感触が気持ち悪い。袖をまくっていなかったために布が手首に巻き付いてくる。
ぎょろりと見上げた鏡に映る重い黒髪。
――――バカみたいだ。
ハサミに手を伸ばす。切り刻んでしまいたくなった。
お揃いになりたかったのか、憧れたのか、それとも願掛けだったろうか。どちらが言い出したか始まりが何だったかは曖昧で、今更こじつける理由もない。ただ髪を伸ばしていたという事実があるだけだ。
これは失恋ではない。断じて違う。
ザクロを持ったあなたを迎え入れてしまったあの秋の夜。開いた窓に射し込んだ眩い月光が部屋を照らし、机に置かれたザクロを微かに照らしていた。吹き込む秋風にさらわれた髪を、あなたに捕らえられたあの時。噛み締めた四粒のザクロの味を、掬い上げられた髪を、綺麗だと囁かれたこの髪を、震える手に重ねられたあなたの手の感触を、名を呼ぶその声を、月の映ったブラウンの瞳を、瞠目する私が映ったその瞳を、愚かな私を、全て――――あれは、幻だった。
あれは、私が作り上げた虚構。
不都合な微睡みを知ってしまった。不都合な幸福を知ってしまった。その何もかもを断ち切って、あれは幻だと脳にメスを入れて、悪夢に魘される日々ともさようなら。
私に愛を囁くあなたなど。
付け焼き刃を握りしめてしまえ。
ざく、ざく。
できるならこのまま排水口に流してしまいたい。あの秋の夜のあなたの指も、目も、声も切り刻んで、零れる涙も切り刻んで。
ざく。
思い出してしまった。醒めてしまいたい。
ざく。
どうか、彼女の目が、喉が、腫れてしまいませんように。どうか彼女の身体がやつれてしまいませんように。どうか彼女の美しい髪が傷んでしまいませんように。どうか、二度とまやかしを囁くな。
ざく、ザク。
口にしてしまった。
全部、全部、悪い夢よ。
こんなにも醜い髪を褒める彼女なんて。
人々が言う「幸せ」など切り刻みたい。
幸せなんて不幸そのものよ。
――――ざく、ざく。
秋が終わる頃、髪を切った。
初出:2024/11/15
加筆修正:2025/01/05
1/5/2025, 5:54:51 AM