よいどれ侍

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かじかむ手をなんとかスウェットの裾で覆い隠し、一心不乱に自転車のペダルを回していた。
ぜぇぜぇと白い息を切らしながら、川沿いをぶっ飛ばしていく。ゆらゆらとした川の水面にはとろりとした満月が浮かんでいて、それは片手間にこちらを覗き見ては、がむしゃらにつっ走るおれをほくそ笑んでいるようだった。


数刻の後、あんだけの時間をぶっ飛ばしてきたんだ。疲労困憊。まぁ無理もない。切らす息すら残ってはいまい。
よる年波には勝てぬものだと未練がましくも自覚しながら、土手沿いで一人佇む。あの月が今もまだ嗤っているかと思うと、川の方に目を遣るのは憚られた。
虚しさを増幅させるだけだと遠慮していたのだが、行き場を失くした視線の先として残されていた夜の寒空を、やむを得ずおれは見上げることにした。



「……火球だ。」



思わず声が溢れていた。


洗練された筋を細く残しながらするりと空を流れていく星であれば、何度か見たことがあった。
しかし、今のは違った。あんな流星は、つよく燃え滾るような光が漲るあんな流星は、生まれてこの方、見たことがない。


火球は、おれの視界を満遍なく埋め尽くしていた茫漠たるこの虚空を、音もなく、刹那のうちに切り裂いてしまったのだった。


おれはあまりにも一瞬の出来事に呆気にとられ、その場に立ち尽くしてしまった。
しばらくの間、この空を眺めていた。目蓋の裏には、あの火球の軌跡がまだくっきりと残されている。


身体にほてりを感じながら、すぐさま自転車に跳び乗った。あの火球が消えてしまわぬうちに、と。
おれは腕まくりをして、白い息を切らしながら、再びペダルを回しはじめた。
月はまだ、おれのことをわらっているのだろうか?なんだかもう今となっては、まったくどうでもよいことのように思えてきてしまった。
ふふっ、と得意気になったおれはまっすぐに続く川沿いの道を一心不乱にかっ飛ばしてゆく。


目蓋の裏に残された軌跡を、どこまでも広がる眼前の空に重ね合わせながら。




「本気の恋」

9/12/2024, 6:02:02 PM