名無しの夜

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 向かい合う二人、何らかの情緒的シーン——

『あ、雪……』

 広げた手のひら、その指先に舞い落ちる雪。

 ホワイトクリスマスだ——と微笑む二人。



 ……ドラマや漫画で、幾度となく見る展開。

 使い古されようとその結末で締められることが多いのは、わかりやすくドラマチックだからだろう。

 そして数多に使われるからには、その情景にそれ相応の需要があるから——なのだろう。



「ホワイトクリスマス? そんなものに憧れなんかないよ。雪なんて、最悪なだけじゃん」


 雪国育ちの彼女は、忌々しげに顔をしかめて言い捨てた。

 その日は朝から雨だった。

 段差のない狭い玄関口で、彼女は傍らのシンク台を片手で掴み、コートの裾を汚さないようモスグリーンの長靴を脱ぐことに専念していた。


 ブーツを模した、お洒落な長靴。

 外は確かに予報通り一日中雨だったが、大雨というほどでもない。

 雨予報のたびに眉をしかめて押入れからその長靴を出す彼女が、いつも不思議だった。


「なんで、長靴?」
「は? 雨でしょ、明日」
「そうだけど——長靴、履くほど?」

 言って、長靴を最後に履いたのはいつだったろうかと記憶を探る。

 多分、小学生ぐらい。
 それも親がまとめたアルバムの写真で見ただけで、自ら用意して履いた記憶はとんとない。

「こっちの人って、長靴履かないよね。それで濡れたとか文句言うくせに。むしろそっちがなんで、なんだけど?」

 なんで、って。

 濡れるより、長靴履く方が面倒だし。
 そもそも濡れて不快な思いをする日より、長靴を使用する機会が少ないから、だろう。


 そう、彼女に述べたかどうか——記憶にない。


 いつの頃からか、彼女は雨でも長靴を履かなくなった。

 代わりに、濡れてダメになっても支障がない、かつオフィスでも見咎められない程度の安靴を履き。

 そうして雨で靴から足まで濡れた日には、鬱陶しげに——よく聞く文句を並べていた。


 何とはなしに聞き流しているうち、ふと気付けば。

 彼女の置き荷物がすべてなくなって。
 この六畳一間の安普請なアパートに、彼女はもう訪れなくなっていた。


 彼女がこの部屋へ最後に来た日。
 互いに何を喋ったかも、正確には覚えていない。


 多分……、将来のことだった。

 この先どうするつもりなの、とか。
 親めいた問いに、机に向かったまま返事にもならない曖昧な音だけ口から発して、心で耳を塞いだのだと思う。

 ああそうだ。

『少し忙しくなるから、あまり来れなくなるかも』

 ——そうなんだ、と頷いた。


 会えなくなる、と確信した。
 でも、何も言えなかった。

『じゃあね』

 いつものように彼女は手を振って、振り返した。

 間隔の短い街灯が、夜空を灰色に見せていた。



「ほら——あの彼女さ、地元に帰ったって」

 そんな話を聞いたのは、彼女と会わなくなって幾度目かの冬だった。


 チェーン店の居酒屋に集まった面々は、みんな懐かしげに破顔して、賑やかに談笑を交わしている。


「え、何で?」

 思わず疑問がこぼれた。

 彼女は、故郷を疎んでいたはずだった。

 冬は長く厳しい、と。
 毎朝どころか、ひどい時には毎時間、雪かきをしなければ暮らしが成り立たない地域だからうんざりだ、と。


「さぁ? 子供が生まれたって話だから、子育てのためじゃないかな」

 ジジババの手が借りられるならその方がいいし。

 子育ての環境としては、田舎の方が良いと感じちゃうんじゃない? 田舎育ちならなおさら。


 推測に過ぎない、けれど不思議と説得力を感じるのは、同じ立場にある者の言だからだろう。


「——そっか……」


 小さく、納得の呟きをもらすのが精一杯だった。


 解散してからだったか。

 我に返ったのは、赤煉瓦の駅舎を目にした時だった。


 あまりな無意識の行動に、苦笑する。

 彼女がこの地を去ったのは、だいぶ前。
 子供を伴った引越なら、列車で去る訳がない。


 街明かりで闇というには明るすぎる、濃灰色の夜空を見上げる。


 ……なんで、何も言わずに。


 思うものの、批難する権利なんてどこにもないのは自分がよくわかっている。

 だから、あるのは一抹の寂しさだけ。


 最後の日、何かを——多少なりとも言えていたのなら。

 結末は、変わっていたのだろうか。



 夜半を過ぎても、駅前の人通りは絶えない。

 曇天をはらんだような夜空でも、この時期のこの地に雪が舞い散ることは決してない。


 それでも。
 街路樹に身を潜めるように立ち、ひたすらに空を仰ぎ続ける。


 フィクションの中ではありふれ過ぎた情景が生じないかと——

 ただひたすらに、雪を待つ。

12/15/2023, 5:48:07 PM