登山中、山で遭難してしまった。
携帯は圏外、日が暮れて足元も覚束無い。
おまけに雨まで降り出して最悪だ。
身体は冷え切り、意識も朦朧としてきた。
ふと、大粒の雨が打ち付ける中、
俺はオレンジ色の明かりが灯る建物を見つけた。
目を凝らすと、古びた木製の看板に
『やまねこ旅館』と書かれている。
助かった――本能的にそう確信し、
ふらふらとした足取りで建物を目指す。
重い扉を押し開け中に入ると、
ロビーには大きなシャンデリアが吊るされていた。
アンティーク調の家具が並ぶ室内は、
外の嵐が嘘のように静かで暖かい。
「ようこそおいでなさいました」
すると、闇が続く廊下の向こうから黒のタキシードを着た男性が現れた。白い肌に、吸い込まれそうな青い瞳。まるで外国製の人形のように整った顔立ちだ。
「すみません、遭難してしまって……。
よろしければ一晩泊めていただけませんか」
「それは災難でしたね。
まずはお体を温めてください」
案内された浴室は、白い湯気に包まれていた。
湯船に全身まで浸かってホッと安堵のため息をこぼす。ぬるりとしたお湯を手で掬うと、白濁色のとろみのある液体が指の間からこぼれ落ちた。
まさかこんな山奥に旅館があったとは。
予約せずに泊めさせてもらったけど、大丈夫なのか。でも、まあいいか。
風呂から上がると、脱衣所に瑠璃色の小瓶が置かれていた。すぐそばに、品の良いメッセージカードが
添えられている。
『特別製の美肌オイルでございます。
全身に優しく塗り込まれてください』
少し奇妙に思いながらも、俺は言われた通りにした。甘い香りが鼻腔をくすぐる。香油だろうか。肌に塗り込むと、じんわりと体の内側から温かくなった。
ダイニングルームへ行くと先程の男性が
笑顔で出迎えてくれた。
「湯加減はどうでしたか?」
「最高です。おかげで溜まった疲れが取れました」
「それはよかった。お食事を準備ができております」
スパークリングワイン、アミューズの前菜、
白身魚のポワレとバケット、牛肉のグリル、
デザートのブリュレとアイスクリーム。
次々と運ばれてくる料理は、空腹だったこともあってかどれも信じられないほど美味しかった。
「お気に召しましたか?」
「ええ、とても。本当に助かりました」
部屋に戻ると、
またしてもメッセージカードが置かれていた。
『至高のリラクゼーションを用意しておりますので、どうぞお越しください』
指定された部屋は薄暗く、キャンドルの明かりだけが揺れている。中央には施術用のベッド。
「どうぞこちらへ」
男性が微笑んでいた。タキシードを脱ぎ、
白いシャツの袖をまくり上げている。
「あの……他の従業員の方は?」
「私一人でございます。お客様お一人のために
最高のサービスをご提供するのが、
当館の『おもてなし』ですから」
うつ伏せの格好になるよう指示され、
男性の手がそっと背中に触れた。
「どうぞリラックスしてください」
指で巧みに凝りをほぐされ、
強ばっていた筋肉の緊張が解けていく。
気持ち良すぎて、意識が遠のきそうだ。
「……いい具合ですね」
耳元で囁かれる低い声が、
鼓膜を通じて脳に染み込んでゆく。
「何が……ですか?」
「お肉が。こうしてマッサージをすると、
柔らかくなるんですよ」
男性の手が太ももを撫でる。
ゆっくりと、感触を確かめるように。
違和感を覚え振り返ると、青い瞳が暗闇の中で
妖しく光った。よく見るとそれは、
縦に細長い猫のような瞳孔だった。
「ご心配なく。痛みは最初だけですから」
そう言うと男性は口の端をぺろりと舐め、
青い目を細めた。
「それではいただきます♡」
お題「おもてなし」
10/29/2025, 6:45:10 AM