(どこにも行かないで)
母は車に乗り込もうとしていた
私は今よりも短い手足をばたつかせ、「一緒にいるの、一緒に…」と言う言葉を何回も繰り返し叫び、胸の中はその気持ちで埋め尽くされていた
今はもう居ない祖母と祖父が私を抑えて宥めていた
車に乗り込む母と玄関にいる私との距離は子供にとって遠く
涙が渋滞している私の眼では輪郭を掴むのがやっとだと連想させる
変だ
母が私の方を向いた
その表情は、悲痛の様な面持ちと感じられ、何故かそれが鮮明に見えた
母と向き合った私の表情さえも
変だ、明らかに
どうして、私がわたしの表情をわかるのだろう?
どうして、この場面がドラマの様に現実味が無く感じているのだろう?
どうして、私はわたしの気持ちを理解はしているはずなのに、どこか冷めた目で見れているのだろう?
ああ、思い出した これは夢だ
私が幼稚園か、小学校に入学したばかり見た 夢
そしてこの夢が私に母への執着を自覚させた最初の事柄だった
次に私がその思いに襲われたのは、小学校2、4年ぐらいの将来にひどく不安を抱いていた時だったか
それとも道徳の授業に慣れてきた頃だったか
とにかく、私は「もしも、母が死んだら」と言う妄想にひどく囚われ、枕を濡らしたような時があった
その時は
ただ、ただ、嫌だと思った
(一緒にいたい!)と言う思いが頭を何度も何度も何度も巡っていた
しかし、それは以外と長く続かなかった
その契機はある日、ケンカした時の母から出た言葉だった
母と私は時折喧嘩することが時折あった。
母子家庭故だと言っておこう
口喧嘩で済む時もあれば、
身体に傷がつくか、つかないかくらいの殴り合いになったことも幾度がある。
喧嘩の終わりはいつも母が私に謝ることが定番だ
その時のケンカは口喧嘩の方であった
実は、母が言ったであろう言葉はわたしの記憶では曖昧だ。しかし、それまでの母への執着と心配の情を根こそぎ削ぐほどに苛烈で私にとって大きい言葉であったことは覚えている。
そして、自分の今の信念、思想への重要な糧となっていることも自覚している
だから、ある程度は予想が着く
母が言ったのは「どおして、そんな言い方しか出来ないの」や「育て方が悪かった」など、自分の言動の正気を疑う類いの言葉だろう
私は当時自分の行動と大多数の他人の行動に相違が応じることを命懸けのつの渡りをしているかの様に気にしていた
それを母と言う創造主は「狂った」と、大多数の言動と明らかに違ったことをしていると定義せしめ
この世で言う社会不適合者であると示唆した
私は後悔した
(どこにも行かないで)と胸の内で懇願したことを
母を”母”だと思っていた事を
私は漠然と認識した
母が喧嘩のたびに「施設に預ける」、「病院に連れて行く」と言って行動に移さないのは典型的な依存状態であり、本当は離れるべきだったことを
私は決心した
社会で自分が生きていけないならば、自分が自分であるまま生き、母に創造主として責任を取らせる事を
今思えば、
私はその地点まで試し行動と言うものを3.4回ほど失敗していた
どれもが若干の自覚ある行動だった故に失敗した時の情景は鮮明に記録されていた
要するに、母への、家族への不信が募っていた
それを私の成長を「可愛い」と「すごい」と時折賛辞する母が「狂った」と表現したことにより 弾け
急速に何かを落とさせ
何かを再起させた
その結果。落胆だけがあった
家族愛は憎悪となり
(行かないで)の叫びは(離さない)と言う決意となった
ただそれだけの話だ
6/23/2025, 3:24:36 AM