他者とは何か。
ある人は言う、それは自己を写す鏡だと。
ある人は言う、それは共に助け合う者だと。
ある人は言う、それは他の人に過ぎないと。
ある人は、言う。
確かに、比較という行為を通じてしか得られない情報はある。身長の高低、力の強弱、優劣とかいうものもその1つだろう。
故に、他者とは自己を写す鏡だとは言えるだろう。事実として鏡像なければ私たちは手足腹部ほどしか見られないのだから。
また、私たちは1つの脳に1つの身体、1つの精神を持つ生きものである。学術的な諸説と1部の例外は黙認して頂きたい。故に、なにか重たい物を持つならば1人よりも2人、2人よりも3人の方がいくらか楽だ。当然、物体が許す限り大勢で持ち上げた方が、1人あたりの負担はずっと軽くなる。それもまた他者のあり方の1つと言えるだろう。
とは言え、他者は他者だろう。脳を、身体を魂を共有するでもない他者は、確実に自身とは切り離された存在であり、それを完全に理解することは不可能だ。そして、なにかしら大きな力を加えてそれを従えようとする行為もまた不純である。
あなたにとって他者とは何か。憎むべき敵か。公害と揶揄すべき悪か。仲間か。同じ食卓を囲う友か。共に授業を受けるだけの他人か。あるいはその全てか。他者、ないしはあらゆる事象を文章に落とし込む行為はある種、暴力的だ。事象を可読な文章に変換する上で、AはBであるという文型に落とし込まなければならない。つまり、視覚、聴覚などの五感で感じ取っている事象を、文章という情報へと次元を下げて折りたたんでいるからだ。
あなたが人間である以上、好きだとか嫌いだとかを感じるのは自由だ。だが、それを文章という形で発言するなら、それ相応の責任を負う必要がある。あなたは発言の過程で、他者の肉を削ぎ、骨を折り、事前に用意しておいた文脈に無理やり折りたたんだからだ。私は、最近見受けられるコミュニケーションの大半が詭弁を弄していて、不健全だと思っている。玉石混交の世界に惑わされずに自分自身の言葉を使って欲しいと切に願う。
これは糾弾であると共に自戒でもある。時折、発言に伴う責任を無視し、他者を傷つけてしまうことがある。別に、他者を傷つけることを悪だと言いたいのでは無い。理由を伴い他者に殺意を抱く時、そしてそれが法を上回る時、人が人の命を奪おうともそれは必然の様にも感じている。しかし、その理由というものに自身がなるという事は大変恥ずべき事だとも感じるからだ。自身の無責任が自身を滅ぼしうることこそ愚鈍に他ならない。
#あなたとわたし
11/7/2023, 11:26:17 AM