紅月 琥珀

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 そこは片田舎にある町外れの森の中。昼でも光を通さない程深い森の舗装されていない獣道を、ただひたすらに進んでいくと開けた場所に出る。
 そこには湖と立派な洋館があり、僕がその洋館のノッカーを軽く叩くと、開かれた扉の中へと入って行く。

『ようこそおいで下さいました。さぁ、こちらにお座り下さい。あなたのお話をお聞かせ下さい。』
 広いロビーに入ると、まるで待っていたかのようにその人は出迎えた。勧められた席に座ると、直ぐに暖かい珈琲とお菓子が出され、話すように促される。
 僕は今日ここに来た経緯を少しずつ話し始めた。

 婚約していた人がいた事。
 その人が憧れていた結婚式を上げたくて仕事を増やし、貯金していたが⋯⋯その分婚約者とは会える時間が減ってしまい、寂しかったという理由で浮気された。更にはお腹に赤ちゃんがいるという。
 ここ最近会えても食事を共にする程度だった為、確実に僕の子ではない。その子を産みたいらしくて、婚約破棄を言い渡され⋯⋯僕も彼女が信じられなくなったから承諾した。
 けれど、そう簡単に切り替えられなくてこの気持ちを彼女という記憶ごとなくしてほしくて、僕はこのサナトリウムを訪れたのだ。
 もし、可能なら彼女と過ごした10年分の記憶を別の物にすり替えて欲しいと、そう伝える。

『それはお辛い出来事でしたね。ご安心下さい。あなたのお悩みは私共が解決してみせます。
 さぁ、今回の担当医達の所までご案内いたします。こちらへどうぞ。』
 そういうと私の手を取り、吹き抜けの階段を上がって2階、1番左の部屋へと案内される。
 コンコンコン、と。控えめなノックの後にどうぞと声がかかり、案内してくれた彼女が扉を開けてくれた。
 手の仕草だけで中へと促され僕がお礼を言って入ると、そこには前髪で片目を隠した少女とふんわりとした雰囲気の少女に黒いマスクをした女性がおり、椅子に座るよう言われる。
 僕が指示通りに座るとふんわりとした雰囲気の少女が早速話を切り出した。
『特定の人物との思い出摘出と摘出した空白分の記憶を新たに繋げるであってますか?
 摘出した記憶は特殊な事例でもない限り戻る事はないです。
 それに、本人に会っても誰なのか分からなくなりますが大丈夫ですか?
 また、新しい記憶で空白期間を埋めると、他の人達との記憶に差異が生じてしまうのでその点注意が必要になります。
 その事を踏まえた上で、この同意書にサインして下さい。どんな記憶で埋めたいか、リクエストがあればその通りの記憶をお繋ぎ出来ますので、何かあれば遠慮せずに行ってくださいね!』
 そう言い終わると1枚の紙を、僕の目の前の机に差し出す。
 それは彼女の説明通りの内容が書かれた同意書であり、最後に摘出したモノは手術代としてもらうため、返せないとも書かれていた。
 私はその事に同意しサインすると、彼女に差し出す。彼女はそれを確認すると、引き出しの中からファイルを取り出して中にしまい僕に向き直る。
『では、どんな記憶にしたいか。具体的な要望はありますか?』
 そう聞いてきた彼女に、僕は理想の記憶を伝える。
 すると、わかりましたと笑顔で答えて、僕を壁際に設置されたベッドに誘導した。
 彼女は僕が横になるのを見届けると、不思議な音色の鈴をゆっくりと鳴らす。その音はとても心地が良く、聞いている内に―――少しずつ眠くなってくる。
 そのまま眠気に抗うことなく⋯⋯僕はゆっくりと意識を手放した。

 目が覚めると知らない天井が視界に広がっている。
 辺りを確認しようと上体を起こすと、それに気付いた少女が話しかけてきた。
『おはようございます。お加減は如何ですか?』
 ふんわりとした雰囲気の少女に僕は大丈夫ですと答えたが、何故ここにいるのか定かではなく⋯⋯困惑していた。
『ここは私達の経営するサナトリウムです。あなたはこの辺りで倒れていたので、私達が介抱していました。』
 お家に帰れそうですか? と何故ここにいるのか分からない僕に説明してくれ、気遣いにもそうだが親切にしてもらった事への感謝を述べた。
 そうして僕はその少女の案内で部屋を出てロビーへと行き、もう一度感謝を伝えてからその場を後にする。
 そこは深い森の中にあるらしく、舗装されていない獣道を進み⋯⋯何とか僕にも分かる道まで辿り着き、日が暮れる前にと急いで帰路についた。

 その日以降、たまに不思議な感覚に襲われる事がある。
 ある花の香りがすると、何か懐かしい感じがして心がざわめくのだ。
 その花の名前も知らないし、嗅いだ覚えもないのに何故だろう?
 そう不思議に思いながらも、シャンプーとかの香りで知らない内に印象に残ってたのかもしれないな⋯⋯と、そう納得しかけていた時だった。
 強く腕を引かれ驚いて振り返ると、そこには綺麗な長髪の女性が息を切らせながら僕の腕を掴んでいる。
 その人に面識はなく、僕は困惑していたけど⋯⋯何故か彼女は僕の名前を知っていて少し恐怖を感じた。
 彼女の言い分を纏めると、僕と彼女は前に婚約関係にあったが婚約破棄になった。しかし、その原因である子供は流産で流れたから今度こそ一緒に幸せになろう! という事だったが⋯⋯僕にそんな記憶は一切なく、きっとこの人は勘違いしているのだと判断する。
『あの、誰かと間違えていませんか? お恥ずかしながら⋯⋯僕は今まで生きてきて、女性と婚約⋯⋯ましてやお付き合いした事すらありませんよ。』
 そう言った僕に、彼女はあの時の事怒ってるなら謝るからと必死に縋り付いてきたが、正直知らない人にやられても怖いだけなので、このあたりで偶々いた通行人に警察を呼んでもらい、事情を説明する。
 僕が嘘を吐いていないと理解したのか、警察の方々が女性を連れて行ってくれたので僕は帰ることにした。
 そういえば⋯⋯彼女が去る前にあの花の香りがして心がざわついたけど、やっぱりシャンプーの香りか何かなのだろうかと―――ちょっと不思議に思いながらも、僕は家路を急いだ。


3/16/2025, 1:42:58 PM