広いリビングの隅、床に小さな光が揺れていた。キラリと反射した光を見つけて、ハルは離れたところからじっと見る。
それは小さく、でもすこしだけ強い光を放っていて、はじめて見るものにしてはあまりにもきれいだった。ビー玉――と、大人ならそう呼ぶものだ。
「……ぁ……ん、ぅ?」
ようやく小さな声を漏らした。それでも、体はまだ動かない。未知のものに怯えながらも、気になっている。ちいさな手でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる力を強めた。
「ぅ……な、ん……?」
ぽやりと曖昧な疑問詞を口の中で転がしながら、ゆっくりと立ち上がる。力のない腕では、ぬいぐるみを抱いたまま立つことはできず、床に寝転ばせるように置いた。
「くー、しゃ……ば、い……すぅ、ぅー?」
ハルは微かに口だけを動かして、ぬいぐるみに『ばいばい』をする。ちいさく手を振る仕草はするが、その幼くやわらかい頬は感情の痕跡がなく、ほとんど動いていない。
「ん……ぽ、す……とて、と、て……」
つぶやくような擬音語とともに、おぼつかない足取りで、一歩、また一歩と近づいてく。
ぼんやりした表情は感情に乏しく、なにも感じていないように見える。それでも、そのおおきな目はビー玉に釘付けだった。
「と、ちゃ……く」
のんびりとハルのスピードで、時間をかけてようやく、ビー玉の元へ到着した。
またゆったりと体をかがめ、指先でビー玉の位置を確かめるように床をさわる。
「ん……ぃっ……ぁ、え……っ?」
触れたとたん、ハルはびくりと体を揺らして手を引っこめる。驚いたことで、ぼすんとお尻から床に転けた。
「ふ……ぅ、ぇ……っ、ぐす」
ハル混乱したようにくちびるを震わせる。さながらビー玉のように薄い瞳からは、ボロボロと涙が溢れる。
それでも、ハルを慰め優しく宥める人はいない。
部屋の片隅にある椅子に座り、静かに本を読んでいる『せんせい』は、ハルのささやくような途切れ途切れの泣き声が聞こえても、目を向けることはない。
「ぐす……っ、はぅ……きら……っん」
尻もちをついたまま弱々しく泣き声をあげながらも、短い手をビー玉へ伸ばした。
「……ぅ……きら……き、ら」
まるい指先でそっとつつく。つるり、と音がして、ビー玉は小さくころがった。
「ぁ……き、ら……め……っ」
今度は握って捕まえようと手を伸ばすが、うまくつかめず、指の間で転がってしまう。思わず、『だめ』と曖昧に口にするけれど、ビー玉は言うことを聞いてくれない。
ハルは少し首をかしげ、ぽやんとした顔でそれを見つめる。慌てることもなく、またゆっくり手を伸ばす。
「ん……ん、と、た……!」
やがて、ビー玉を両手でそっと持ち上げることができた。小さな球を見つめ、ふにゃふにゃと体を揺らしながら逃げないように、力の入らない手で懸命にビー玉を握りしめる。
すっかり座り込んでいたハルはそのまま、せんせいのいる方にそっと歩き始める。足取りは相変わらず不安定で、とてとて、と足音がした。
「……せんせ、はぅ……きら、する」
せんせいは初めて、本から顔を上げて、ハルに目を向ける。涙の跡を色濃く残し無表情ながらも、どこか上機嫌なハルが見せて来たのは、くすんだビー玉だった。ハルは『きらきら』といっているが、随分と汚れている。
「それ、ビー玉じゃない。どこにあったの?」
「ん………」
せんせいは薄く微笑み、声色は上品だ。けれどその目にはハルに対する一片の興味もない。無視することはないが、長く会話を続けたくはないし、せんせいから声をかけることはハルの世話をするときを除いて、決してない。
そんなせんせいの態度に気づいているのかいないのか、ハルの薄い表情からは読み取れない。ただ、どこにあったのかと問われたハルは素直に、ビー玉があった場所を指さす。ゆったりと動くせいで、それだけの動作に数十秒かかった。
「そう」
ハルの示した場所に一瞬目を向けるて、ひと言だけ返した。初めから存在しなかった興味は、一ターンの会話を終わらせるという義務を経て終了した。
「んぅ……ぇ、と……は、る……」
「まだなにかあるのかしら?」
「……き、ら……せんせ……いる、する……」
「いらないわよ」
「ぇ………?」
びくりと肩が震え、なにも映していないようなハルの表情が崩れる。大きな目を潤ませたまま顔も体も強ばり、どうしていいのかすらわからない。
尻もちをついて泣いたときと似ているが、いまは『どうして』と『構ってほしいのに』という甘え、そして拒絶されたことによる混乱と不安が綯い交ぜになっている。
「話は終わったかしら?」
「ぁ………ぁ、ぅ……」
ハルの返事を待つことなく、せんせいはまた手元の本に意識を戻す。
ハルはそっと、座り込んだ。大事に握りしめていたビー玉も、床の上、せんせいの足元に置く。
なにも支えのない場所では、1歳になったばかりの幼い体では上手く座っていることすら困難だ。何度も姿勢を崩しながら、座ることに疲れて倒れそうになるのを必死に耐えながら、昼食の時間になるまで、邪魔にならないようじっとしていた。
#2 「ここにある」 25.8.28
8/28/2025, 5:01:01 AM