美津子「あなた、葛野さんからお葉書が届きましたよ 春のお食事会は楽しかったから、近いうちに是非またお目にかかりましょう♪ですって…」
秀三 「葛野さん? 春に会ったって?そうだったかな…」
美津子「あら、嫌だあなた あなただって、とっても楽しんでいらしたわよ ボケないでくださいよ」
秀三「あぁ、思い出したよ あれは春だったかぁ あれが春だったか去年だったか、もっと昔だったかはもう良く分からんよ」
美津子「嫌だわ…そんな事言わないで下さいよ そのうち私のことも誰だい?だなんて言い出したら、私嫌ですからね」
秀三「何言ってるんだい、ボケるのは正常に老いている証拠じゃないか 皆、老いることを怖がり過ぎるんだ」
美津子「正常に老いる…?」
秀三「そもそも神は、命あるものは何れは朽ち果てるものとして造られたんだ その終結の『死』を自然に穏やかに受け入れるためのシステムが『老化』なんだよ」
美津子「システムだから避けては通れない…ということですね」
秀三「そうだ 死んだ経験のある人は誰もこの世に居ないから、皆死んだら終わりとか、闇雲に恐怖感を持つけれど、そういうものなのだから仕方ないんだよ
とは言っても、やはり恐怖は免れない だから老化しながら少しずつ『死』を受け入れる準備をするんだよ
目がよく見えて、耳がよく聞こえて、美味しく何でも食べられて、頭が冴え冴えしていたら、恐怖にも敏感になるし生きることへの執着も強くなるだろう?
だから、目や耳や内臓は次第に衰え、頭もぼんやりとしてくることで、衰えを自ら自覚するんだ
頭や感情がぼんやりしていれば、恐怖感も薄れてくるわけだな
神は本当に慈悲深い
最後の最後までちゃんと考えて造られたんだよ
有り難いことだよ」
美津子「耳も遠くなれば嫌な事も耳に入ってこなくなるし、目が見えなければ醜くくなる自分も良く見えなくなりますものね…」
秀三「その通りだよ これが若いままでいてごらんなさい 毎日が辛くてたまらんよ
だから、過ぎた日々を思い出せなくなるくらいで丁度良いのさ まだ若い者がその事を覚えてくれていれば十分なんだよ」
美津子「でも、あなたが私を分からなくなるのは、やっぱり嫌ですよ」
秀三「そうなるかどうかは分からんが、もしそうなったとしても、それは私が美津子をそれだけ大切に思っているという証でもあると思ってくれたらいいんだ」
美津子「どういう事です?」
秀三「それも神が与えてくれたシステムなのだが、とても大切な人のことをどんどん忘れていく恐怖や脳の機能に対して、忘れてしまうという苦痛から守る為にその大切な人を脳の中に閉じ込めてしまうという特別な作用が働くことがあるんだよ
皆に起こるわけではないがね
だから、私がそうなったとしても美津子を忘れた訳ではなくて、忘れる恐怖から逃れる為に心の奥に、過ぎた日々の思い出ごとすべて大切に仕舞い込んだと解釈して欲しいんだ
こんなに深く愛されていたのか…とむしろ感動して欲しいよ」
美津子「あなたったら… もちろん私の名前を呼んで下さらなくなったらとても悲しいですけれど、今のお話で少し気持ちは楽になりましたわ」
秀三「ま、こんな話が出来るんだ
私の頭があやふやになるのはもう少し先になりそうだがね(笑)」
美津子「まったくですわ(笑)」
『過ぎた日を思う』
10/7/2024, 12:41:24 AM