Acogare

Open App

私には妻というものが御座いません────

死んだ両親が残した財産で職に付かずともあと五年は暮らしていけるのにも関わらず、世間の目を気にして、ある程度の地位は欲しいと考えた後、職を得るのに難渋していた誠二郎は数ヶ月前に訪れた古びれた布屋で、ある男に出逢った。其の男は老人並の落ち着きと慈悲深さを持ち合わせており、将来について思い悩んでいた誠二郎は尊敬の念を抱くようになった。布屋に通ううちに其の男は誠二郎に丁稚として働かないかと提案した。誠二郎はより一層彼への尊敬の念を深めながら、二つ返事で返答し働く事になった。すぐに誠二郎は彼を師と仰ぐようになった。

とても高いというわけではないが、それでも職を得て地位を確立した誠二郎は、次は女について悩み始めた。誠二郎はお見合いの話は何件か来たことはあるが、その縁談が決まるまでいくには若すぎる年齢だったのでまだ恋などという感情をはっきりと知らない平凡を極めた男だった。然し友人には二、三ほどもう妻を娶った者もいるのでどうしようかと頭を悩ませていた。

そんな誠二郎は師である布屋の男に相談をしてみた。
然し彼の返答は誠二郎を幻滅させた。

────────────
私には妻というものが御座いません。私が貴方くらいの年齢の時には私も縁談やら何やらで人並の恋愛をするつもりでありました。然し、ある日から私は女というものが怖くなってしまったのです。女は男よりも計算高く怖い生きものです。…いや其れは最も私見ですがね。そんな事を思わせる恐ろしい出来事があったのです。
なので私は縁談も全てお断りして独りで生きていくことに決めたのです。そんな私は先ず仕事を一生懸命やりました。海外に行ったり東京で働いたり、女とは無縁の人生を歩んで参りました。
今となっては落ち着いて布を売っていますが、そんな私も恋、というものを最近羨ましく思えてしまうのです。二人の男女がお互いの気持ちを通わして心までもひとつにするというのはどんなに壮大な事か。女の怖さは歳を重ねるにつれて消化したのでしょう。今ではそんな経験をしておけば良かったと後悔しています。自分でその様な事を退けたのに、私は愚かですね。
然しもう出来ないと考えてしまうと、より一層欲しいと思うのです。ないものねだり、なのかもしれません。
なので私は女については貴方に何も言うことは済まないが、出来ないのです。最も、この歳になって幸運にも良い相手が見つかっても、夫婦になろうと思う程恋に魅入っているかは分からないのですが…。
────────────

誠二郎は内心驚いた。何につけても一歩後ろから、最善を提案してやってのけるような其の男が、女につけては全然駄目だったことに驚いた。彼は全くもって完璧ではなかった。誠二郎が作り上げた彼の人物像とは全く違っていた事を知り、少し、彼への憧れがすり減った気がしてがっかりした。
そしてその日から誠二郎は彼を師と仰ぐようなことはなくなった。
まだ二十歳になったばかりの誠二郎は若さという残酷さを持ち合わせていた様であった。

3/27/2026, 10:00:01 AM