過呼吸に陥りかけた頭と肺を落ち着かせる。
恐ろしく周到で凶暴なあの男は、もしあのまま和樹が現れたら喜んで応えただろう。
ここでの格差は凄まじい。
冷静になった途端に、肩を包む大きな手に気恥ずかしさが忍び寄ってきた。
「落ち着きましたか」
見上げる相棒の表情はまだ緊張と何かをしでかすような危うさが垣間見える。
「いいか和樹。ここではいくら挑発されようと抑えなければいけない」
お前が殺されてしまう。
「そこまで人権がないのですか」
「ないよ」
間髪入れた返答の直後、空気が一変した。高音で亀裂が入るような空間の捻れを感じる。
「お前を失いたくない分かってくれ」
「分かっているつもりでした」
そっと頬をなで上げると彼は僅かばかり笑む。ああ、違うな、同じ所属同士のもつ共鳴するような穏やかな音が脳に直接響いてくる。
男として我慢ならないはずだ。理不尽を彼にまで強要しなければならないなんて。
「冷たいです」
夜明けが近い。
隣の男はすっと立ち上がり途端に身体も冷たい空気に晒された。肩に掛けられた男物の服はずり落ちる。
「何か温かいもの入れますよ。空腹だと眠れないでしょう」
簡易キッチンに行く男の肩にはまだ激情がこもっている気がして、穏やかでは居られない。
抱いててほしかったとは口が裂けても言えなくて、彼の匂いの上着を胸元でかき合わせた。
程なくして温かいスープが机に運ばれた。
「ありがとう…」
「いえ」
「すまない軽率だった。嫌な思いをさせた…」
スープは熱すぎない温度で、お腹に優しく通っていく。
「あなたは何も分かっていない」
ため息がちに、和樹は窓の外を見ている。
私が自ら受け入れたことだ。精神が逸脱してしまったことは認めるが、仲間を生かすためなら、この骨のような身体がどうなろうと……
「そうじゃなくて!」
珍しく怒気をはらんで肩を掴まれた。
「貴方がしていることは、春を売っているのではありません」
「は、る…」
「分かりませんか」
「だ、って。こんなことぐらいしか」
自分の身を犠牲にするぐらいで皆を守れるなら安いものだと思った。
身体を開けばやつは気をよくして最後は優しく帰される。
「あなたはもう取り込まれている。どんなに生活基盤が上がろうが、精神論や宗教が浸透しようが、大戦中や内戦中、村の女達が、次々と敵兵にレイプされる現実を知っているでしょう」
いったいどこの話をしているの?
「日本の話?」
「人間や動物のオスの話をしているのです」
ぞわりと、暗に男の性質の話なのだと、実感した。和樹の瞳には憎悪のような負の感情が湧き上がっている。
「女達を根こそぎレイプすることで、村には溝ができます。敵兵の子を孕めば差別は免れません。家族の1人がレイプされたと、ほかの家族に知られてはまずいんです…」
「なぜ」
耳を塞ごうとする私の手を、彼は手首を握って止めた。
「迫害と侮蔑。そして不和が始まります。僕たちの中で…不和が起これば分断に繋がります」
「お前は私の部下でしょう」
力の限り握ってくる手はあまりに無作法で熱い。
「そんなの関係ありませんよ」
侮蔑。その言葉だけが心に取り残される。軽蔑されているのか?
「その男は、僕たちの内部分裂を知ったら喜びます。貴方とその…以前の管理者パトロンであった男性とも、完全に齟齬が生まれているはずです」
ああ… 遠い記憶が押し返してくる。
「ちが…。違わない」
私。あの晩秋の夜に気絶するほど殴られて見知らぬ塔に連れられ監禁された。もう遠い昔。
「言わなければよかった。でも我慢できませんでした」
僕だけは貴方のそばを離れません。
その言葉は今はあまりに白々しくお腹に溜まっていく。温かいはずなのに…。
流れ星に願いを
4/25/2026, 4:00:04 PM