NoName

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その日、僕が休憩室でそれを見つけたのは全くの偶然だった。

僕が学校に行っていた頃に使っていたものと同じメーカーの、文房具コーナーでまとめ売りされているのをしばしば見かけるチープなノート。一目見て分かる程度には使い込まれているそれが、ぽつんと自販機の前、硬いソファの上に放置されていた。

拾い上げた年季の入ったノートはごわごわと膨らんでいた。中に紙でも貼り付けてあるのだろう。
こんなノートを使うのはやはり学生だろうか。見舞いに来た同級生に板書の内容を写させてもらったとか、そんなところかもしれない。生憎と僕にそんな経験はないが、そういうことがあると本で読んだことがある。

脳内で持ち主の当たりをつけながら、名前でもないものかと何の気なしに表を向けた僕はその表紙、さらに言えば、そこに貼り付けられた紙に思わず目を奪われた。

『起きたら必ずこれを読むこと。
私の名前は__。18歳。交通事故にあって15歳からの記憶がない。事故の後遺症で明日になれば今日のことを忘れる。そのため病院の△号室に入院している。』

以下、持ち主らしき人物のプロフィールが鋏で切り取られたのだろうコピー用紙に書き連ねてある。肝心の名前は何故か黒いマジックペンで塗り潰されていた。

……どこかで聞いたような話だ。これが入院患者を対象にした趣味の悪いドッキリでなければ……僕の思考を遮るように、タイミングよく声がかかった。

「それ、私のです。拾ってくれてありがとう」

明朗さと警戒心を器用に滲ませた声に、弾かれたように顔を上げる。
少々強引にノートを取り上げたのは、ピンと張った黒髪と黒目がちな目が印象的な、僕と同世代くらいの女の子だった。

「……じゃあ」

乱暴にノートを奪ったのが気まずいのだろうか、女の子はぎくしゃくと頭を下げて踵を返そうとする。

心臓が不自然なリズムを刻んでいた。ノートの真偽は勿論気になっていたけれど、そんなことを考えるより先に、もっと単純でやや浮ついた気持ちが僕の身体を突き動かす。

「ねえ、君の名前は?」

吟味する暇もなく零れ落ちた疑問に女の子がきょとんという顔をして、性急すぎたかと後悔した。
うわずった気分と息の詰まる緊張感。僕の薄っぺらな人生を丸々塗り替えてしまうような劇的な感情の高まりに、鼓動はさらに速まる。

瞬きの後、頬を緩ませた彼女が瞳を輝かせて口を開くのを、僕は期待と予感に身を震わせて見つめていた。


『もっと知りたい』

3/12/2024, 1:02:21 PM